見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

世の光

あなたがたは世の光である。
(マタイによる福音書5章14節)

主イエスはご自分を信じて生きる人々に、あなたがたは世の光であると仰せになります。しかし知っておくべきことは、それ以前のこととして主イエスご自身が世の光であるということです。「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』(ヨハネ8:12)
主イエスは世の光であられる。それはこの御方こそ、人生の根本にある問題を解決してくださる御方であるということです。人間のまことの救い主であるということです。
聖書が示している大切な真理。それは人間が闇から光に移されるためには、罪の問題が解決されなければならないということです。なぜならこの世と人間に悩みや苦しみをもたらすのは、人間を生まれながらに支配している罪だからです。人生が荒れ野、砂漠にたとえられる。人生の旅にも苦しみや困難がともなう。それは、人生の根本に罪の問題が横たわっているからです。罪が人間に、人生に、世界に苦しみや悲しみや困難をもたらす。それは世の有様を見るならあきらかです。わたしたちもよく知っていること、経験していることではないでしょうか。

主イエスが世の光であるということ。それは、人の命と魂とを罪の闇の底の底から救い上げる力を持つただ一人の方であるということです。死ぬべき人をさえ、死を超える命に生かすことがおできになる方であるということです。
そしてそのことは、主イエスがわたしたちのために十字架にかかってくださった事実なしには理解できないことです。主イエスはまことの神であられましたが、世の闇を打ち払い、世に光をもたらしてくださるためにまことの人となられ、世に来られました。わたしたち人間と同じく血と肉とを備えた方として、天から来られたのです。すべての点でわたしたちと同じになられたのです。わたしたちの兄弟となられた。そして死の苦しみをも知る者となってくださったのです。

この世の、人間のまことの闇とは罪の闇です。主イエスはわたしたちのために十字架に死なれることによって、わたしたちに死をもたらす罪の支配をうち滅ぼし、罪の闇をうち払ってくださいました。わたしたちを闇から光へと移しかえてくださいました。死の恐れから解き放ってくださいました。
そのみわざはわたしたちにとってどれほどすばらしい、喜ばしいみわざであることでしょうか。まさにこれこそ、この世の知ることのなかった恵みです。天から降りてきた祝福です。この神の恵み、命の恵みによって、世はまことの光を持つに至ったのです。わたしたちは命の光を持つに至ったのです。
そのことが理解される時、ひとつのことがはっきりします。キリストを信じて生きる人々、キリストの弟子となって生きる人々は確かに世の光と呼ばれるのですが、世にあって光を放つのですが、それは自分自身で輝きをつくり出すというのではないのです。自家発電という言葉があります。自分の家に発電装置を備えて、光をともすことです。けれどもキリスト者が世の光であるのはそういうことではありません。光をつくり出すのは自分自身ではありません。
キリスト者が世の光であるのは、世の光なるキリストにつながっているからです。キリストに結ばれているからです。つまり、キリストから光をいただくのです。キリストの光をみずからの身をもって映し出す。反映する。だから、彼らは世の光と呼ばれるのです。

地の塩

あなたがたは地の塩である。
(マタイによる福音書5章13節)

塩は調味料であり、防腐剤です。言うまでもなく人間の生活、日々の生活に欠かせないもの、貴重なものです。ただ、一方で塩は目立たないもの、見栄えのしないものです。
さらに言えば、塩は隠されています。隠し味という言葉がありますが、塩加減はむずかしいです。ことに塩がはっきりと形をとどめているような食べ物は、食べていくのがつらいでしょう。みずからは食材の中に身を隠す。そういうしかたで食材を生かす。ちゃんと味をきかせている。それが塩のありかたです。

つまり、塩は声高に何かを訴えたりはしない。世にあって人目を引くような、派手なパフォーマンスもしない。自己主張もしない。塩とはどのような人々か。心の貧しい人々です。悲しむ人々です。柔和な人々です。また、迫害されている人々です。そのような人々は、おそらくは地にあってはとりわけ注目を浴びる、スポットライトを浴びる人々ではないかもしれない。そのような人々に、世の人々はことさらに目を留めることはないかもしれない。むしろ見過ごされ、忘れられているような人々。それが、地の塩と呼ばれる人々です。
けれども実に不思議なことに、そのような人々が存在しているからこそ地は持ちこたえているのです。地が軽んじている、世がさげすんでいるそのように貧しく、低く、弱い人々によって、地上のいとなみは今日に至るまで存続しているのです。塩は防腐剤でもあります。素材をきよめ、腐敗を防ぐ作用があります。そのように地は確かに塩によってきよめられ、守られているのです。

塩味とは何か。ある人は、それは神の愛であると語ります。地の塩と呼ばれる人々は、神の愛を知る人々です。みずからも神の愛に生かされている人々です。神にあって世を愛し、人々の命を大切にし、平和を実現し、この地上に天の国の幸いなる秩序を実現していく。めだたなくとも地道に、着実に、たゆみなく、そのような生き方を置かれた場所で貫き通していく。
そのような人々こそ、地の塩と呼ばれます。彼らは地にあって塩味を、天の国の前味をきかせ続けます。そうした生き方、そうした歩みを、神から委ねられた使命として受け取り、この使命を忠実に果たしていくのです。
地の塩とは、わたしたちのことでもあります。主イエスは、あなたがたは地の塩となりなさいと仰せになるのではありません。わたしにつながって、わたしに結ばれて、あなたがたはすでに地の塩である、地の塩とされていると仰せになるのです。

神を愛する

主を愛する人は悪を憎む。
主の慈しみに生きる人の魂を主は守り
神に逆らう者の手から助け出してくださる。
詩編97編10節)

詩編97編の詩人は終わりの日、終末における神の裁きを見ています。その日神はまったき義のはかりをもって世の不義を裁き、義の道を生き抜いた者たちに豊かに報いてくださる。そのことを詩人は信じています。この詩の特徴は、その終末信仰がそのまま今この時を生きる主の民の信仰の決断をうながしているところにあります。

神は御言葉をもってご自身を人間にあらわされます。また、ご自身が御腕をふるってなしたもうみわざについても告げ知らされます。これを神の啓示と言いますが、神の啓示はたとえば何かの事件の報道とか、あるいは情報伝達といったような客観的なメッセージとは異なります。
つまり、神の啓示を聞いた者はもはや中立の状態ではあり得ません。神の言葉に対する応答を迫られるのです。神は霊的存在、人格を持つ存在です。その神が人間と出会われます。わたしたちの人生に介入してこられます。わたしたちの根本的なありかたを問われ、ご自身に従うべきことを求められるのです。この神の求めに、わたしたちも全人格をもって応答します。そこに信仰が生まれます。
その消息を語り示しているのが10節です。「主を愛する人は悪を憎む」。主を愛する。それはわたしたちが何か自分の中のイメージで、また自分が愛したいように、観念的にまた感情的に愛しているつもりになることではありません。主なる神を愛する。それはきわめて具体的な事柄です。すなわち、神の言葉に従うことです。

神は悪を憎まれる方です。ご自分を信じる者たちにも悪を憎めと仰せになります。この神の言葉に従って悪を憎み、悪を離れること。それが神を愛するということです。そのように神を愛する者たち、すなわち御言葉に聴き従う者たちこそ、詩人のように終わりの日の神のまったき裁きを待ち望むことができるのです。

虚無の問題

なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
(コヘレトの言葉1章2~3節)
何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
(同8~9節)

教会の家庭集会で三浦綾子さんの『光あるうちに』を読んでいます。昨日は「虚無というもの」というところを読みました。日常生活において家庭や金銭に恵まれ、70パーセントは満たされていると感じている人々。けれど、残りの30パーセントが満たされない。その30パーセントの空白を、趣味や恋愛で満たそうとしても、満たされない。高価な宝石や衣服で身を飾りながら、毎日がさみしいと涙をためる女性。
三浦さんが療養中に出会った青年。彼は病気が回復し、退院の日が近づくにつれて何とも言えない憂鬱な表情に変わっていった。退院が近いのになぜ憂鬱そうにしているのと尋ねると、今まで一日も早く回復することを目的にして生きてきたが、その目的が達せられると、何をしていいのかわからなくなった。会社は、自分が病気になって休んでも何も困らなかった。人が補充され、支障なく仕事は続けられた。つまり、自分はいてもいなくてもよかった人間、存在価値ゼロの人間だったということだ。そう言い残し、彼は退院前日に姿をくらまし、行方不明になった(この忘れられない人のことは『氷点』の一場面となった)。

人間を襲う虚無。それは、突き詰めて言えば人間が死ぬ者であるという事実に起因するものであると思います。時に死はある日突然、不意打ちのようにわたしたちの日常に入り込んできます。そしてそれまで築き上げてきた人生を根こそぎ奪い、愛する人々からも引き離します。死には、すべてをゼロにする力を持つのです。もしも死によってわたしたちの人生のすべてが終わってしまうのだとしたら、死がいっさいを無に帰してしまうのだとしたら、わたしたちが日々このようにして生きていることに、何の意味があるのか。

日本の古典にも無常観を主題としたものがあります(「平家物語」や「方丈記」など)。旧約聖書の「コヘレトの言葉」も語ります。「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」。
しかし、日本の古典が語り示す虚無と、「コヘレトの言葉」が語るそれとは、明確に異なります。つまり「コヘレトの言葉」が語る虚無は、神なき人生の虚無なのです。神ありの人生へと転換するなら、この虚無はひっくり返るのです。

この世にある何ものも、人間の虚無を埋めることはできません。人間は被造物です。それゆえ人間の虚無を真に埋めることができるのは、造り主なる神のみです。人の死を命に変えられた、生けるまことの神のみです。
虚無を満たすもの、それは実存しかない。実存とは、真実の存在なる神である。永遠に実在する神である」(新潮文庫版108頁)
「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて」(コヘレト12:13)

人間の栄光と悲惨

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
(ローマの信徒への手紙1章20節)

ローマの信徒への手紙1章18節以下は、人間の栄光と悲惨について語ります。天地創造のおりに、神は人間をあきらかに鳥や獣や這うものとは異なったしかたで造られました。ご自身にかたどり、ご自身に似せて(創世記1:26)造られたのです。人が神に似せられている。それは、神と同じく霊を持つ者だということです。「あなたはわたしたちを、あなたに向けてお造りになり、わたしたちの心は、あなたの内に休らうまでは不安なのです」(アウグスティヌス)「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」(1:25)。
それゆえ人間は、神との命の交わりに生きるのです。神を礼拝して生きるのです。「神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶこと」(ウェストミンスター小教理問答1問)。これが人生の目的です。そのような者として造られているところに、人間の幸いと栄光があります。

しかし、最初の人間アダムにあって人間はこの栄光を失いました。あなたが神のようになれる(創世記3:5)。この誘惑の言葉により、人は木の実に手を伸ばしました。始祖のこの背きの罪によって、全人類に罪が入り、罪の報いとしての死が入ったのです。造り主なる神から引き離されるなら、人は生きることはできません。
この背きによってインマヌエルの祝福は失われ、神の似像としての栄光のすがたも失われました。

その悲惨は、何よりも礼拝という局面において顕著にあらわれることとなりました。パウロは、人間には弁解の余地がないと論じます(20)。何に対して弁解の余地がないのか。神を知ることができないことについてです。この世に神などあるはずはない。もしもこの世に神が存在するなら、ためしに一度神を見せてほしい。そうしたら、信じよう。そのように言う人があります。
けれどもパウロは言います。神は存在しないのではないし、ご自身を人の目から隠しておられるわけでもない。神はご自身の存在を、そしてそのみ力のすばらしさを、今なおはっきりとあらわしておられる。何を通してか。創造のみわざのすばらしさを通して。「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す(詩編19:2)。
にもかかわらず神が見えないのは、人の目が罪によって曇らされているからだ。神を見る人の霊のまなざしがさえぎられているからだ。だから、神には責任がない。だから、人には弁解の余地がない。
罪に堕ちてなお、人間は礼拝する者、生まれながらに「永遠を思う心」(コヘレトの言葉3:11)を宿す者です。それが創造の秩序であるゆえに。けれども、その永遠を思う心は今や罪よって鈍く、暗くされ、造り主にはまっすぐには向かいません。
どこに向かうのか。「滅び去る人間や鳥や這うものなど」(1:23)、すなわち被造物のほうへです。神のかたちに造られ、神を礼拝し、神の栄光をあらわして生きるべきであった人間が「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕え」(1:25)るに至ったのです。何という倒錯、何という悲惨でしょうか。

けれども、神はご自身のすがたが見えなくなってしまったわたしたちのために、全人類のために、大いなる恵みをあらわしてくださいました。わたしたちがもう一度ご自身のもとに帰っていくことができるように、みずから橋をかけてくださいました。御子イエス・キリストを世に遣わし、御子を十字架につけてわたしたちの罪を贖い、取りのけてくださったのです。そして、御子について証しをする書物―聖書を備えてくださったのです。
このみわざにあずかって、わたしたちはふたたび造り主を、永遠なる方をはっきりと見、まっすぐに仰ぎ、この方を礼拝し、この方の栄光をあらわして生きるすこやかな人間、本来の人間のすがたを取り戻すことができたのです。神が見えなくなっていたわたしたちに、神はみずから近づいてくださり、インマヌエルの祝福を回復してくださったのです。神のひたすらなる恵みによることです。

隠す

ゲルハルト・リヒターの絵画「ビルケナウ」(美術館で実物を観ました)。1944年の夏にアウシュビッツ強制収容所(「ビルケナウ」は「アウシュヴィッツ第二強制収容所」)で、処刑された囚人たちの遺体処理を行ったひとりの囚人が隠し撮りをした貴重な写真(多くの遺体が焼却される様子や、ガス室に送られる直前の囚人たちの様子を撮影したもの)を入手したリヒターは、この写真をキャンバスに描き写し、そのスケッチの上からペインテイングナイフで絵具を幾重にも、重層的に塗り固めていきます。
こうして完成した絵の前に立っただけでは、260センチ×200センチの大きな抽象画にしか見えません。塗り固められた絵具の下に、強制収容所の闇の光景を写し取ったスケッチが隠されていることはわかりません。

パウル・ツェランは両親ともにナチスに連行されて強制収容所に送られ、父はそこで病死し、母は銃殺刑に処せられるという経験をもつ詩人です。この人に「帰郷」という作品があります。故郷の雪原の光景がモチーフとなっていますが、最初の稿には「あなたの目の丘」という詩句があります。「もりあがる曲線の隠喩」「丘陵の大きさにまで拡大された巨大な死者の眼球」(冨岡悦子『パウル・ツェラン石原吉郎』11頁)。葬られることなく放置された、母の遺体の目です。
ところが、決定稿ではこの「目の丘」はなくなります。降りしきる雪によって覆い隠されるのです。「死者の眼球のメタファーであった『丘』をおおう雪は、読者を詩にいざなう銀世界であると同時に、歴史の災禍を隠蔽するベールであった」「記憶の現在化と告発を内に秘めて、雪降りしきる風景の自然抒情詩として読めるところにこの詩の考えぬかれた仕掛けがある」(同書15頁)

画家も、詩人も、隠した。この符合は何を語るのか。興味深いことです。

原罪(2)

旧約聖書創世記3章1節以下は、アダムと妻がどのようにして罪に堕ちたのかを記します。この聖書箇所を読んでわたしたちが知らされることは、ここにわたしたち自身がいるということです。「アダム」とはもともと人間という意味です。つまり最初に造られた人間であるアダムはすべての人間、全人類を代表してもいるのです。
そして、ここにわたしたち自身、このわたしがいます。アダムが罪を犯したプロセスは、わたしたちが罪を犯すプロセスと全く同じなのです。

まず、アダムと妻とを罪に誘惑する者がありました。サタンです。サタンは被造物である人間を造り主なる神から引き離そうとする者であり、そのために知恵を用いて画策します。ここでサタンは蛇の姿をかりて人間に近づきます。サタンはまずアダムの妻に近づき、神の言葉の正しさを疑わせるような言葉で女に問いかけます―神は園のどの木からも食べてはいけないなどと言われたのか(1節)。神の言葉への信頼をぐらつかせることは、人を神から引き離すために有効なことだからです。
サタンの問いかけに、女は答えます―園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと神は言われました(2~3節)。重要なことは、すでにここで女が神の言葉を曲げていることです。2章17節と比較すればわかります。神は「触れてもいけない」などと言ってはおられませんが、女はこの言葉を付け加えています。それから「死んではいけないから」とも仰せになってはいません。「必ず死ぬ」と仰せになったのです。
そこで、サタンは決定的な誘惑の言葉を語ります―その木の実を食べてもあなたは死なない。それどころか、あなた自身が神のようになれる。
自分が神になる。絶対者になる。支配者になる。何でも自分の思いのままになる。人間にとってこれほど魅力的な言葉はありません。自分が神になることをこそ、神のような力を持つことを、だれでも願うのではないでしょうか。けれどもこの蜜のように甘い言葉こそが、人を神から離れさせ、人に死をもたらすことになるのです。被造物が、みずからを造り主の位置につける。倒錯のきわみです。この悲惨な倒錯状態こそが罪(「的をはずれる」)にほかならないのです。

この誘惑の言葉を聞いた女はどうしたでしょうか。もはや神の言葉は彼女の耳から飛んでしまいました。彼女は自分の目で木の実を見、自分の手でそれに手を伸ばしました(6、7節)。神の言葉よりも自分の判断に従うようになったのです。こうして女は、自分の意志で神の言葉に背きました。そして女は、男にも木の実を渡しました。それは男を共犯者とするためです。わたしたちもまた罪を犯すとき、共犯者をつくるのではないでしょうか。
この罪の結果、神と人との間には決定的な変化が生じました。彼らは神の足音を恐れるようになります。それまでは彼らにとって、神の足音を聞くことは喜ばしいことでした。神が近づいてくださることは喜びでした。しかし今や彼らは、神の足音を恐れて木の間に身を隠すようになったのです(8節)。
神は9節でアダムにお問いになります。「どこにいるのか」。つまりあなたはだれか、何者なのか、どのようにして生きているのかという問いかけです。根本的な問いかけです。神は彼らが御言葉に背いて木の実に手を伸ばしたことを知られます。そして、なぜ食べたのかとお問いになります。まずアダムに問われます。すると彼は、み言葉に背いたことを告白して神の前にこうべを垂れるのではなく、女が自分に木の実を渡したからだと答えます(12節)。続いて神は女に同じ問いかけをされますが、彼女も罪を認めようとせず、蛇がだましたからだと答えます(13節)。つまりアダムと女は、おたがいに責任転嫁をはかったのです。

このように、神の言葉を自分勝手に曲げること、神の言葉を忘れて自分の判断に身を任せること、共犯者をつくること、神の顔を避けて隠れること、罪の責任をなすりつけること、これはまさしく人間が罪を犯すプロセスそのものではないでしょうか。すべてのアダムの子孫は(今に至るまで)このようにして罪を犯すのではないでしょうか。
そのことに気づくとき、もはやわたしたちはこの創世記の記事が昔の、時代遅れの神話にすぎないなどとは言っていられなくなるのです。アダムの罪がこのわたしに及んでいるなどという、そんな割に合わないことがあるかなどとは言っておれなくなるのです。まさにここに、わたし自身がいるのだからです。