見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

あなたは神

主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
山々が生まれる前から
大地が、人の世が、生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神。
詩編90編1、2節)

日本人の宗教観には、自分の内なる何者かが神であるとの理解も見られます。しかし、聖書においては神と被造物とは区別されます。両者の間に一線が引かれます。

詩人はここで、永遠者なる神に呼びかけています。永遠の神と被造物である人間とが、なぜたがいに交わることができるのでしょうか。それは、神が人間をご自身のかたちに似せて、人格と言葉をもつ者として、すなわち霊的存在として造られたからです。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)
自身を造りたもうた神との、命の交わりに生きる。それが人間の本分なのです。

永遠の神のもとでこそ、人間は被造物としての自身の限界を自覚します。「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。/人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(9、10節)
人生はため息のように消えうせる。生涯は短く、命ははかない。

けれども、詩人は神に祈り求めます。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(12節)。人生の目的がどこにあるのか。世界と人間を真に知る知恵をどのようにして得ることができるのか。

それらのものは自身の内にはない。造り主なる神が教え示してくださることである。そのことを詩人は知っています。人間には、人間自身の力ではとても立ち向かうことのできない、解決することのできない問題があります。生と死の根本にかかわる問題。死を超える命を得る手立て。そうしたことは上から、天から、造り主から教えていただかなければならない。そのときはじめて「生涯の日を正しく数える」ことができるのです。