見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

原罪(2)

旧約聖書創世記3章1節以下は、アダムと妻がどのようにして罪に堕ちたのかを記します。この聖書箇所を読んでわたしたちが知らされることは、ここにわたしたち自身がいるということです。「アダム」とはもともと人間という意味です。つまり最初に造られた人間であるアダムはすべての人間、全人類を代表してもいるのです。
そして、ここにわたしたち自身、このわたしがいます。アダムが罪を犯したプロセスは、わたしたちが罪を犯すプロセスと全く同じなのです。

まず、アダムと妻とを罪に誘惑する者がありました。サタンです。サタンは被造物である人間を造り主なる神から引き離そうとする者であり、そのために知恵を用いて画策します。ここでサタンは蛇の姿をかりて人間に近づきます。サタンはまずアダムの妻に近づき、神の言葉の正しさを疑わせるような言葉で女に問いかけます―神は園のどの木からも食べてはいけないなどと言われたのか(1節)。神の言葉への信頼をぐらつかせることは、人を神から引き離すために有効なことだからです。
サタンの問いかけに、女は答えます―園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと神は言われました(2~3節)。重要なことは、すでにここで女が神の言葉を曲げていることです。2章17節と比較すればわかります。神は「触れてもいけない」などと言ってはおられませんが、女はこの言葉を付け加えています。それから「死んではいけないから」とも仰せになってはいません。「必ず死ぬ」と仰せになったのです。
そこで、サタンは決定的な誘惑の言葉を語ります―その木の実を食べてもあなたは死なない。それどころか、あなた自身が神のようになれる。
自分が神になる。絶対者になる。支配者になる。何でも自分の思いのままになる。人間にとってこれほど魅力的な言葉はありません。自分が神になることをこそ、神のような力を持つことを、だれでも願うのではないでしょうか。けれどもこの蜜のように甘い言葉こそが、人を神から離れさせ、人に死をもたらすことになるのです。被造物が、みずからを造り主の位置につける。倒錯のきわみです。この悲惨な倒錯状態こそが罪(「的をはずれる」)にほかならないのです。

この誘惑の言葉を聞いた女はどうしたでしょうか。もはや神の言葉は彼女の耳から飛んでしまいました。彼女は自分の目で木の実を見、自分の手でそれに手を伸ばしました(6、7節)。神の言葉よりも自分の判断に従うようになったのです。こうして女は、自分の意志で神の言葉に背きました。そして女は、男にも木の実を渡しました。それは男を共犯者とするためです。わたしたちもまた罪を犯すとき、共犯者をつくるのではないでしょうか。
この罪の結果、神と人との間には決定的な変化が生じました。彼らは神の足音を恐れるようになります。それまでは彼らにとって、神の足音を聞くことは喜ばしいことでした。神が近づいてくださることは喜びでした。しかし今や彼らは、神の足音を恐れて木の間に身を隠すようになったのです(8節)。
神は9節でアダムにお問いになります。「どこにいるのか」。つまりあなたはだれか、何者なのか、どのようにして生きているのかという問いかけです。根本的な問いかけです。神は彼らが御言葉に背いて木の実に手を伸ばしたことを知られます。そして、なぜ食べたのかとお問いになります。まずアダムに問われます。すると彼は、み言葉に背いたことを告白して神の前にこうべを垂れるのではなく、女が自分に木の実を渡したからだと答えます(12節)。続いて神は女に同じ問いかけをされますが、彼女も罪を認めようとせず、蛇がだましたからだと答えます(13節)。つまりアダムと女は、おたがいに責任転嫁をはかったのです。

このように、神の言葉を自分勝手に曲げること、神の言葉を忘れて自分の判断に身を任せること、共犯者をつくること、神の顔を避けて隠れること、罪の責任をなすりつけること、これはまさしく人間が罪を犯すプロセスそのものではないでしょうか。すべてのアダムの子孫は(今に至るまで)このようにして罪を犯すのではないでしょうか。
そのことに気づくとき、もはやわたしたちはこの創世記の記事が昔の、時代遅れの神話にすぎないなどとは言っていられなくなるのです。アダムの罪がこのわたしに及んでいるなどという、そんな割に合わないことがあるかなどとは言っておれなくなるのです。まさにここに、わたし自身がいるのだからです。