見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

人間の栄光と悲惨

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
(ローマの信徒への手紙1章20節)

ローマの信徒への手紙1章18節以下は、人間の栄光と悲惨について語ります。天地創造のおりに、神は人間をあきらかに鳥や獣や這うものとは異なったしかたで造られました。ご自身にかたどり、ご自身に似せて(創世記1:26)造られたのです。人が神に似せられている。それは、神と同じく霊を持つ者だということです。「あなたはわたしたちを、あなたに向けてお造りになり、わたしたちの心は、あなたの内に休らうまでは不安なのです」(アウグスティヌス)「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」(1:25)。
それゆえ人間は、神との命の交わりに生きるのです。神を礼拝して生きるのです。「神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶこと」(ウェストミンスター小教理問答1問)。これが人生の目的です。そのような者として造られているところに、人間の幸いと栄光があります。

しかし、最初の人間アダムにあって人間はこの栄光を失いました。あなたが神のようになれる(創世記3:5)。この誘惑の言葉により、人は木の実に手を伸ばしました。始祖のこの背きの罪によって、全人類に罪が入り、罪の報いとしての死が入ったのです。造り主なる神から引き離されるなら、人は生きることはできません。
この背きによってインマヌエルの祝福は失われ、神の似像としての栄光のすがたも失われました。

その悲惨は、何よりも礼拝という局面において顕著にあらわれることとなりました。パウロは、人間には弁解の余地がないと論じます(20)。何に対して弁解の余地がないのか。神を知ることができないことについてです。この世に神などあるはずはない。もしもこの世に神が存在するなら、ためしに一度神を見せてほしい。そうしたら、信じよう。そのように言う人があります。
けれどもパウロは言います。神は存在しないのではないし、ご自身を人の目から隠しておられるわけでもない。神はご自身の存在を、そしてそのみ力のすばらしさを、今なおはっきりとあらわしておられる。何を通してか。創造のみわざのすばらしさを通して。「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す(詩編19:2)。
にもかかわらず神が見えないのは、人の目が罪によって曇らされているからだ。神を見る人の霊のまなざしがさえぎられているからだ。だから、神には責任がない。だから、人には弁解の余地がない。
罪に堕ちてなお、人間は礼拝する者、生まれながらに「永遠を思う心」(コヘレトの言葉3:11)を宿す者です。それが創造の秩序であるゆえに。けれども、その永遠を思う心は今や罪よって鈍く、暗くされ、造り主にはまっすぐには向かいません。
どこに向かうのか。「滅び去る人間や鳥や這うものなど」(1:23)、すなわち被造物のほうへです。神のかたちに造られ、神を礼拝し、神の栄光をあらわして生きるべきであった人間が「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕え」(1:25)るに至ったのです。何という倒錯、何という悲惨でしょうか。

けれども、神はご自身のすがたが見えなくなってしまったわたしたちのために、全人類のために、大いなる恵みをあらわしてくださいました。わたしたちがもう一度ご自身のもとに帰っていくことができるように、みずから橋をかけてくださいました。御子イエス・キリストを世に遣わし、御子を十字架につけてわたしたちの罪を贖い、取りのけてくださったのです。そして、御子について証しをする書物―聖書を備えてくださったのです。
このみわざにあずかって、わたしたちはふたたび造り主を、永遠なる方をはっきりと見、まっすぐに仰ぎ、この方を礼拝し、この方の栄光をあらわして生きるすこやかな人間、本来の人間のすがたを取り戻すことができたのです。神が見えなくなっていたわたしたちに、神はみずから近づいてくださり、インマヌエルの祝福を回復してくださったのです。神のひたすらなる恵みによることです。