見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

虚無の問題

なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
(コヘレトの言葉1章2~3節)
何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
(同8~9節)

教会の家庭集会で三浦綾子さんの『光あるうちに』を読んでいます。昨日は「虚無というもの」というところを読みました。日常生活において家庭や金銭に恵まれ、70パーセントは満たされていると感じている人々。けれど、残りの30パーセントが満たされない。その30パーセントの空白を、趣味や恋愛で満たそうとしても、満たされない。高価な宝石や衣服で身を飾りながら、毎日がさみしいと涙をためる女性。
三浦さんが療養中に出会った青年。彼は病気が回復し、退院の日が近づくにつれて何とも言えない憂鬱な表情に変わっていった。退院が近いのになぜ憂鬱そうにしているのと尋ねると、今まで一日も早く回復することを目的にして生きてきたが、その目的が達せられると、何をしていいのかわからなくなった。会社は、自分が病気になって休んでも何も困らなかった。人が補充され、支障なく仕事は続けられた。つまり、自分はいてもいなくてもよかった人間、存在価値ゼロの人間だったということだ。そう言い残し、彼は退院前日に姿をくらまし、行方不明になった(この忘れられない人のことは『氷点』の一場面となった)。

人間を襲う虚無。それは、突き詰めて言えば人間が死ぬ者であるという事実に起因するものであると思います。時に死はある日突然、不意打ちのようにわたしたちの日常に入り込んできます。そしてそれまで築き上げてきた人生を根こそぎ奪い、愛する人々からも引き離します。死には、すべてをゼロにする力を持つのです。もしも死によってわたしたちの人生のすべてが終わってしまうのだとしたら、死がいっさいを無に帰してしまうのだとしたら、わたしたちが日々このようにして生きていることに、何の意味があるのか。

日本の古典にも無常観を主題としたものがあります(「平家物語」や「方丈記」など)。旧約聖書の「コヘレトの言葉」も語ります。「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」。
しかし、日本の古典が語り示す虚無と、「コヘレトの言葉」が語るそれとは、明確に異なります。つまり「コヘレトの言葉」が語る虚無は、神なき人生の虚無なのです。神ありの人生へと転換するなら、この虚無はひっくり返るのです。

この世にある何ものも、人間の虚無を埋めることはできません。人間は被造物です。それゆえ人間の虚無を真に埋めることができるのは、造り主なる神のみです。人の死を命に変えられた、生けるまことの神のみです。
虚無を満たすもの、それは実存しかない。実存とは、真実の存在なる神である。永遠に実在する神である」(新潮文庫版108頁)
「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて」(コヘレト12:13)