見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

奇跡の問題

奇跡は、おそらくは聖書を読む際のひとつのつまずきであろうと思います。福音書にも主イエスの数々の奇跡が記されています(病める者の癒し、パンの奇跡、湖上を歩かれたこと、死者を命に返されたこと等)。
わたしたち現代人は合理主義、科学万能主義の中で生きています。そこでは奇跡などは荒唐無稽なものとしてしりぞけられがちです。そのようなわたしたちにとって、聖書の奇跡をどのように理解するのかということは大きな問題です。

大切なことは、奇跡の問題をどのような視点からとらえるべきかということです。科学万能主義に立ち、人間理性、合理性に見合わないものは受け入れられない、すなわち第二原因に見合わないものはすべて受け入れないという立場に立つなら、奇跡は到底受け入れられないということになるでしょう。
しかし、聖書ははじめに神が無からすべてを創造されたと、そして万物はこの神の御手によって、御心のままに導かれていると語ります。この無からの創造そのものが大いなる奇跡の御業です。
さらに、このときに自然法則を定めたもうたのも神ご自身です。現代の科学万能主義は自然法則を絶対視し、これを唯一のはかりとしますから、これに見合わないものは受け入れられないということになるのですが(そこでのはかりは神ではなく、人間理性です)、自然法則も神が定められたのだとすれば、自然法則を用いられようと、あるいはこれを超えて働かれようと、それは神がご自身の自由のもとになしたもうことなのです。

奇跡の問題を考えるときにいちばん大切なこと。それは、人間の罪とその救いの問題と切り離さないことです(ここでいわゆる新興宗教、ご利益宗教、超常現象といったものと、聖書の奇跡とは明確に区別されます)。聖書の中で奇跡が記されているときには、必ずひとつの問題がそこにあります。それは人間の罪の問題です。すなわち罪の問題はそれほどに大きな問題であり、深刻であり、地盤が固いということです。神学校の組織神学の授業で、教授から聞いた言葉です―罪の、コンクリートのように固い地盤をはがすには、通常の手段をもってしては到底力が及ばない。特別に強い力が必要である。自然法則を超えた、超自然的な、神の直接的な介入が必要である。
最大の奇跡は、イエス・キリストのみわざです。受肉、処女降誕、復活は、すべて人の罪からの救いに不可欠であったのです。罪人であるわたしたちが神の御手に捕らえられ、主イエスのみわざによって救いにあずかったこと。それそのものが、神の大いなる奇跡のみわざなのです。