見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

「内なる人」の領域

たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
(コリントの信徒への手紙二4章16節)

「内なる人」の領域は神のみ手の領域であり、そこで神は自由なみこころによって、恵みのみわざをふるわれます。そこではいっさいの人間のわざは手控えられねばなりません。そしてこの神の領域はあらゆる人間的な、この世的な価値観や常識がくつがえされていく場所です。この世の、人間の常識やわざや力はやがては朽ちていくものです。そしてそれらは究極的な「落胆」であるところの死の力の前では無力です。
これに対して主なる神は、この世と人間の限界をうち破り、人間をまことに生かし、そしてご自身の創造によるこの世界をまことに支配する権威と力とを持っておられるのです。

「内なる人」の領域は人が自分自身の真相、すなわち自分が土の器にすぎないということ、朽ちゆく者にすぎないということを見抜くことができず、自分を主人とし、自己実現と自己追求にひたすらに突き進んでいるところでは、まったく見えない領域です。わたしのわざ、わたしの行い、わたしの内なる何らかのものに目が向けられているかぎりは隠され続けている領域なのです。しかし神の憐れみによって霊の目を開かれるときに、人ははじめてそこを見ることをゆるされます。
ファリサイ派の学徒であったときのパウロの目には「内なる人」は見えなかったでしょう。復活の主イエスが彼に出会ってくださり、彼の目を開いてくださいました。「内なる人」の領域を知らされたパウロは、神の真理は人間のこの世的な強さの中でではなくむしろ弱さの中で、苦難や試みのただ中で、土の器の限界の中でこそあらわされるとの真理を語りました。神の力は、それまで大手をふるっていた人間の、またこの世の力が退き、手控えられ、取り除かれたところでこそ鮮やかに啓示されるのです。

神は十字架の言葉(一コリント1:18以下)においてご自身を啓示され、この十字架の言葉においてわたしたち人間と出会われます。同時にこの十字架こそ、衣をはがされるようにして人間の真相があらわにされ、永遠者のみ手によって有限なるこの世と人間の地盤が吟味され、覆され、この世のいっさいの価値の逆転ということが起こる場所です。十字架の愚かさにつまずかない者は幸いです。なぜならそこは人間がまことの神のみ手の中に取り戻され、第一の人、アダムにおいて失われていたすこやかな人間の姿へと回復される幸いな場所であるからです。人は十字架のもとでこそ、アダムにあって失っていた楽園を仰ぎ見るのです。