見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

イエス・キリストとはだれか(1)

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
ヨハネによる福音書1章14節)

イエス・キリストとはどのような方であるのか。ヨハネによる福音書1章14節はこのように言います。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。
ここでの「言」とはたんなる言葉のことではなく、まことの神のことです。「言」、ロゴスと呼ばれる方。この方は永遠の神、父なる神と栄光と権威とを分け持っておられる子なる神です。
この「言」が「肉」となられた。「肉」とはやはりたんなる肉体のことではありません。聖書は「肉」という言葉で、人間存在そのものを言い表します。ここでの「肉」とはまことの人間性のことです。つまり、聖書は言うのです。まことの神がまことの人間性を摂って世に来られた。わたしたちの間に宿られた。それがイエス・キリストという御方である。イエス・キリストはまことの人間性をまとって世に来られたまことの神である。

使徒信条は神を「全能の父」と言います。「全能」とは、できないことはないということです。神には、おできにならないことはない。
では、神はその全能の力をどのようにしてふるわれたのでしょうか。「肉」となること、人間性をまとうことにおいてです。「言」、永遠の神であられるキリストは、肉となられました。神であられるままに、わたしたちと同じ人間となられたのです。
なぜそのようなことをなさったのでしょうか。わたしたち人間を救うためです。神は御子キリストを人となして世に遣わされました。御子は天で御父と分け持っておられた栄光を捨て、本来の住まいである天とはまったく似つかわしくない地の上に来られました。光の世界から、罪と悪の闇の支配するこの世に来られたのです。
御子は僕として罪人らに仕え、この世と人間の苦しみを担い、その生涯の最初から最後までが苦しみであったと言い得るような生涯を歩まれ、人間に根本的な救いを与えるために、すなわち人間を生まれながらの罪の支配から解き放つために、十字架にかかり、血を流し、肉を裂かれたのです。人の罪を贖う犠牲のささげものとして、ご自身を十字架の上におささげになったのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。キリストが摂られた「肉」、人間性ということについて、わたしたちは覚えていなければなりません。これは人間性一般ということではなく、わたしたちの、この「わたし」の人間性です。つまり「言は肉とな」ったとは、永遠の神がこの「わたし」とひとつになってくださったということです。なぜそのようなことが起こったのか。神は「わたし」を愛しておられるからです。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。これは、神の究極の愛を表す出来事です。神はみずからわたしたちの「肉」を、すなわちわたしたち自身の貧しさと孤独と悲しみ、苦しみ、無力をその身にまとわれたのです。そして世の闇を光に、人の死を命に変えてくださったのです。