言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
(ヨハネによる福音書1章14節)
ヨハネによる福音書14節は、「肉」となった「言」なる方―イエス・キリストのうちに、わたしたちは神の栄光を見たと告げます。神の栄光はどこにあらわされたのでしょうか。
わたしたちは知っています。神の栄光は、十字架の低さと卑しさ、恥と弱さのきわみにおいてあらわされたのです。
この世が思い描く栄光とはどのようなものでしょうか。何でも思いのままになる、どんな願いもすぐさまかなう、そういう理想社会、ユートピアでしょうか。そうであれば、覚えておかねばなりません。神がこの世に実際にお与えになった栄光とは、どうかするとこの世がついに見過ごしてしまうような、しっかりと真理を見る目を開いていないと見逃してしまうような、そういう種類の栄光であったのです。神は人間に、彼らの思うままの栄光や栄誉をお与えになるかわりに、肉となった言を、まことの神であられるままにまことの人となった方をお与えになったのです。
そして、断固として仰せになるのです。あなたにはわたしのほかに神があってはならない。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にしてイエス・キリストの父である神、独り子を十字架につけ、三日目に甦らせることによって世に栄光をあらわしたこのわたしのほかに、神があってはならない。あなたは刻んだ像を造ってはならない。自分勝手な神々をこしらえてはならない。わたしはあなたがたのために独り子を遣わし、独り子を通してわたしを知ることができるようにした。この道筋と異なるしかたでわたしを知ろうとしてはならない。
神の栄光とは、不思議な栄光です。この世は、生まれながらの目によってはついにこの栄光を見出すことができないのです。聖書は、苦難の僕イエスの中に、世が驚き、つまずき、嘲笑うような場所にまことの神の栄光があり、この栄光が恵みと真理に満ちていることを告げ知らせます。そこでこそわたしたちはまことに癒され、解き放たれ、自由を得、救いを得るのです。神の恵みによって真理を見る目を開かれた者は幸いです。
神はわたしたちの命を根本的に救うために、わたしたちの恐れを根本的に締め出してくださるために、わたしたちがまことに真理と命を見出すことができるように、「言」を「肉」となして遣わしてくださいました。そして、聖書を通してこの方を知り、この方と出会い、この方とともに生きることができるようにしてくださいました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。神がわたしたちのところに来られました。神が「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(一ヨハネ1:1)として、わたしたちと出会ってくださる。その驚くべき恵みと幸いが実現したのです。