見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

苦難の意味(1)

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
(ローマの信徒への手紙5章3~5節)

キリストを信じて生きている人はこの世のあらゆる苦難から免れると考えるなら、それは違います。キリストを信じる人々も苦難にあうのだということは確かめておかねばなりません。
そして、苦難の意味について語る聖書の言葉に耳をかたむけたいのです。一般には苦難は忌まわしいもの、できればかかわりたくないもの、遠ざけておきたいものと考えられています。人はできることなら苦しみのない、あるいは苦しみの少ない人生を送りたいと願うでしょう。しかし聖書の語るところによれば、苦難にも積極的な意義があります。苦難もまた益なのです。

苦難は人生のマイナス要因である。苦難は忌まわしいものである。それはそのとおりです。けれども覚えておりたいのです。もしもイエス・キリストという方がいまさなかったとしたら、もしもイエス・キリストがわたしたちと共におられ、共に歩んでくださらなかったとしたら、苦難はただひたすらに苦難です。キリストにある希望がないところでは、実際にわたしたちはおのおのの人生の苦難に耐えることはできないでしょう。将来に希望も持てないのに耐え続けるということは、わたしたちには不可能です。
キリストに結びつくとき、苦難は方向転換をするのです。キリストを信じる信仰によって、苦難は意味なきものから意味あるものに、価なきものから価高きものに変えられるのです。聖書の言葉を通して、わたしたちはその消息をはっきりと確かめることができるのです。

キリストの十字架のみわざにもとづく神との平和が保証されるのは、わたしたちの生活が順調なときだけではありません。苦難のとき、試練や逆境にあるときにも、この平和は動くことがありません。そしてキリストを信じて生きるということは、まさに苦難に直面しているところで、苦難のただ中で信じるということです。
苦難と信仰とが並んでいるということではありません。苦難にうちかったところで、はじめて信仰の道が開けるというのでもありません。苦難に遭遇している自分自身を、愛しまつるキリストにゆだねる。そこでこそわたしたちは、苦難もまた益であることを学び知るのです。ブラザー・ロジの言葉です―あなたは試練の捕虜となるのではなく、それをそのまま受け入れるのである。試練によって内なる自己が築き上げられていくことを望むことができるゆえに(『信頼への旅』)。