見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

古き人を突き抜ける

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
(マタイによる福音書5章38~42節)

主イエスは39節で仰せになります。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。右の頬を打たれたなら、左の頬を向けよ。わたしたちはこの御言葉に納得することができるでしょうか。頬を打たれたなら打ち返す。それが当然のことではないか。それこそ正当なふるまいというものではないか、そう問い返したくなるのではないでしょうか。右の頬を打たれたなら左の頬をも向けよ。無抵抗の教えです。抵抗しない。それは損をする道、損害を甘んじて受ける道です。愚かな道、納得しがたい論理ではないでしょうか。

わたしたちはこの主イエスの御言葉をどのように受け止めたならよいのでしょうか。主イエスはそのように仰せになるけれども、これは気高い、崇高な教えだけれども、主イエスはここで理想を語っておられるにすぎない。これははじめから人間には実現不可能な戒めであり、そういうものとして傾聴しておけばよい。そう考えることができるなら、楽なのです。あるいは、主イエスが語られた御言葉の中で聞き従うことのできそうなものと実行不可能に思われるものとを区別して、聞き従えそうなものにだけ聞き従えばよい、そう考えることができるなら、楽なのです。
けれどもそうではありません。主イエスは御自分の弟子たちに、このようにせよと仰せになります。そうすると、この御言葉はわたしたち自身の事柄となります。わたしたちがそのように生きることができるのかという問題になります。
そしてわたしたちは気づくのです。この御言葉を生きる者になるためには、わたしたちの内側から変えられねばならない、すなわち新しい人となる必要があるということにです。

目には目を、歯には歯を。そのように言いつつ、わたしたちは自分たちの権利を要求します。自分たちが正しいのだという前提に立ってのことです。けれども、人間の正しさはきわめて心もとなく、人間の正しさは不完全きわまりないのです。人は皆始祖アダムにあって、生まれながらに罪人です。その生まれながらの罪人が、自分の正しさに固執してたがいに自分の権利を主張し合う。自分には報復する権利があると思い込む。
しかし、どちらが正しくどちらが誤りであるということは、本来はない。義人はいない。ひとりもいない。その事実を知らされる時、わたしたちは目には目を、歯には歯をとのあの戒めが、古い人の論理であることを知らされるのです。この古い人を、わたしたちは突き抜けなければならないのです。

ここに新しい道が示されています。主イエスに結ばれることにより、わたしたちは新しく生まれます。新しい人間とされます。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(二コリント5:17)。古き人が古き人の支配から解き放たれ、自由にされて、キリストにある新しい人に生まれ変わる。
その新しい人はどのようにして生きるのか。キリストがもたらしてくださった秩序、天の国の秩序に従って生きるのです。右の頬を打たれたなら左の頬を向けよ。これもキリストにあって新しい人とされた人間が生きる秩序、天の国の秩序です。ここに、真に人間が生きるべき道が教えられています。ここにキリストの義が開かれています。そして、その道はまさしく命に至る道なのです。

キリスト者とは、古い人をすでに突き抜けているひとりひとりです。主イエスはわたしたちのために死んで甦られた。この贖いと甦りの命によって、わたしたちは新しく生まれ変わり、新しい人として生かされています。この世の論理を超えた、天の国の喜ばしい秩序に生かされているのです。