「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
(マタイによる福音書5章38~42節)
内村鑑三は日露戦争のおりに非戦論を唱えました。内村の非戦論の根本にあったのが、マタイ福音書5章38~42節でした。内村は、これは疑問の余地もないほどあきらかに主イエスが無抵抗を教えている御言葉であると言います。そして主イエスが仰せになったのだから、わたしたちはこの御言葉に従わなければならないと言うのです。
無抵抗主義など弱い者の論理である、なぜ正面からたたかいを交えないのかと言う人もありました。無抵抗の教えは人を無気力にし、元気を失わせるものだと批判する人もありました。
しかし内村は言います。無抵抗をつらぬくことは、抵抗することよりもよほどむずかしいことである。けれどもわたしたちは愛のため、勇気のためにあえて抵抗しない。抵抗するよりも勇気のいることである。敵の善を思い、その利益と権利をわがもののごとくに思いやるのは、非常な勇気を要することである。愛がなければできないことである。弱い者を助けるための勇気、貧しき者を救うための勇気、とりわけたった独りでも道をつらぬく勇気。これこそが悪にうちかつ勇気である。
また、もしも悪に全然抵抗することがないならば、悪はますます増長し、ついに善は地上から絶たれるのではないかと心配する声には、内村は悪が最も恐れるのは譲ること、退くことであると答えます。悪を根絶やしにする手だてとは何か。軍備を固め、鎧をまとうことではない。実に、悪に譲ることなのだ、なぜなら悪とは本来自滅的なものだからだ、そのように言われるのです。
そこには内村自身の人生経験の裏打ちがあったのです。あるとき、ある人にひどい仕打ちをされて、長い間その人をどうしても許すことができなかった。けれども、聖書に書いてある。右の頬を打たれたなら左の頬を向けよ。あなたから借りようとする者に背を向けてはならない。愛をもって許せということです。ふりあげたこぶしをおろせということです。それで、内村はその人を赦した。内なるたたかい、古い自分との激しいたたかいがあったと思いますが、その人を赦した。そうすると、そのキリストにある愛によってその人の心は溶かされ、和解を得ることができたのです。
戦争や世界平和のことを考えることが、こういう個人的で日常的な経験と深く結び合っていたことは、内村の信仰において興味深い事実であると思います。ともあれわたしたちはひとつのことを知ることができるのです。主イエスの御言葉に単純素朴に聞き従う。人間の論理、この世の論理を超えて、キリストの言葉に聞き従う。キリストの御言葉のとおりに生きる。そこから、奇跡のような愛の道が開かれてくるのです。主イエスの御言葉に従って、振り上げたこぶしを自分からおろす。そこから人の世の憎しみの連鎖、剣の連鎖を断ち切る、愛と平和の連鎖が始まるのです。剣を鋤に変え、槍を鎌に変え、平和の御国を耕すいとなみが始められていくのです。
もちろん、それは容易な道ではありません。古き自己とのたたかいがあります。しかしこのたたかいに勝利する力を、神が与えてくださいます。十字架と復活の主の力によって、わたしたちはこの霊のたたかいを担うのです。