見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

聖書

神を知ることによってはじめて人生の意味と、世界の真理と歴史の意味を知ることができます。人生の目的も確かなものとされます。ではどのようにして神を知ることができるのでしょうか。聖書をとおしてです。聖書なしには神を知ることはできません。聖書はキリスト教信仰にとって、まさに命のように大切な書物です。

そこにどなたがおられるのかはわからないが、何かありがたい気持ちになって、自然に涙があふれてくる―そういう意味の古い歌があるそうです。神々しいものに触れたときの心持ち。日本人の宗教観の一端があらわれていると思います。
しかし、神はご自分を隠される方ではありません。ご自身がどのような方かを明確に示してくださる方です。だからこそ人間は神を知ることができるのです。聖書は「ただひとりの」「生けるまことの神」(ウェストミンスター小教理問答問5)を示すのです。

神はこの世と人間に対して自己紹介をなさるために、また命と救いの真理を教え示してくださるために、さらには人間との間に交わりを持たれる手だてとして、言葉をお用いになりました。そしてご自身の言葉を書かれた言葉―書物のかたちとすることを御心とされました。それが聖書です。
言葉を持つとは命を持つこと、人格を有することのしるしです。神が「霊」(ウェストミンスター小教理問答問4)であるとはそういう意味です。この点、聖書は「ただひとりの」「生けるまことの神」と、命も人格も言葉も持たない偽りの神々とを区別します。

ところで、イエス・キリストは仰せになります。「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネによる福音書5章39節)。聖書はイエス・キリストを証しする、イエス・キリストを語り示す書物です。聖書を開くとき、わたしたちの前にキリストが立たれるのです。聖書をとおして、わたしたちはキリストに近づき、キリストと出会い、キリストの命に触れるのです。聖書をとおして、わたしたちは救いの真理に導かれ、キリストの命に生かされる幸いな人に造り変えられるのです。

人生の目的

ウエストミンスター小教理問答の問1は「人生の主要な目的は何ですか」と問います。この問いを初めて目にされたある方が、わたしはもう何十年も生きてきたのに、人生の目的などということを考えたこともありませんでしたとおっしゃったのを、今も覚えています。

さまざまなことが人生の目的になり得ます。財産を築くこと。地位や名声を得ること。大きな仕事を成し遂げること。しかし、これらは地上における人生の目的、ということにとどまります。そして、いずれも不確かです。財産を一瞬にして失うということがあります。地位や名声も同様です。何よりも、わたしたちの命そのものが不確かです。自分が明日生きているかどうか。明日も命があるのか。だれにもわかりません。

「人生の主要な目的は何ですか」との問いに、小教理問答は答えます。「人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです」。また、ジャン・カルヴァンの手になるジュネーブ教会信仰問答の問1はこうです。「人生の目的は何ですか」「神を知ることです」。
これらの問答は、わたしたちの目を永遠の領域に向けるべきことを教え示します。永遠者である神を探求すべきことをうながします。

人生の確かさは、わたしたち自身の中にはありません。自分のうちにある何ものかを頼りにしているかぎり、人生は不確かです。
人生の揺るぎなき土台、岩、命のとりで。それは神です。「わたしはある」と言われ、わたしたちに「あなた」と呼びかける永遠者です。この方を知ることによって、わたしたちははじめて人生の意味を知ることができ、この世界の真理と歴史の意味をも知ることができます。神を知ることは、真理を知ることです。そこでこそ、人生の目的は確かなものとなるのです。

筆跡

間をおいて届いた
二葉の絵葉書

絵柄こそ異なれど
そのたたずまいには
いささかの違和もない
筆跡も
文体も
盛り込まれている思想も
まさしく彼のもの

その間に
長い時間を要した
大きな手術がはさまっているなどとは
だれも思わないだろう

二枚の絵葉書を並べて
眺めてみる
彼が彼であることに
わずかの乱れもない

繕われた臓器をいたわりながら
こののちも 慎み深く
したたかに生きていくであろう人の
端正な筆跡

平和を実現する人々は、幸いである(2)

平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイによる福音書5章9節)

平和を実現してくださったのは、イエス・キリストそのお方です。主イエスがこの世界のために、またわたしたちひとりひとりのためになしとげてくださったみわざこそ、わたしたちが平和を実現する者となることができることの根拠であり、土台です。

そのみわざとは、罪の赦しのみわざです。平和を実現しようとするときに、それを妨げるものは人間の罪です。最も根本的には、罪とは神に背くことです。わたしたちは神なしでもやっていける。自分の足で立ち、自分自身の力と知恵で立っていける。この世界を自分たちの思うままの世界につくり上げることができる。そのように考えて、愛と義の神から離れる。
そのとき、人は愛とは何かがわからなくなります。正義とは何かがわからなくなります。平和の喜びも忘れ去ってしまいます。

神のもとを離れることで、人は世界と人間に平和と幸いをもたらす神の義を、自分自身の曲がった義と取り換えてしまうのです。そしてめいめいが自分勝手にふるまうようになる。自分の正義を振り回すようになる。聖書によれば、神のもとを離れ去ること、神との平和を失ってしまうこと、それが戦争を含むこの世のあらゆる争いと憎しみと対立の根にあることなのです。
そうであるとすれば、平和を実現する者となるためには(人間同士の平和に先立つものとして)神との平和が必要です。神と和解し、神のもとにたちかえり、神との平和を回復することが必要です。

主イエスはわたしたちのために、このことを成し遂げてくださいました。平和を実現することがいかに困難なことか。そのことを最も深く知り抜いておられたのは主イエスです。この方は平和の王として世に来られました。ろばの子に乗ってエルサレムに凱旋されました。この方こそ、平和そのものであられました。
しかしその方が、最後には死ななければならなかったのです。十字架につけられて死ななければならなかったのです。この世界において愛と正義をつらぬくことがいかにむずかしいことであるのか。そのことが最も深く示されているのは、十字架のキリストにおいてなのです。

神と人との隔ての壁となっていた人の罪を、主イエスは取り除けてくださいました。ご自身が十字架に死なれることによってです。わたしたちの憎しみや争い、苦しみやわざわいの根元にあった罪、わたしたちのうちに生まれながらに根を張っていた罪が、十字架の贖いの恵みによりかれました。
こうして、神と人との和解が成し遂げられた。このことによって、わたしたちの身の上に根本的な変化がもたらされたのです。神と敵対していた者が、神との平和を得たのです。わたしたちは「神の子と呼ばれる」者とされたのです。

神との和解。神との平和。このことが土台にあるからこそ、今わたしたちは人と人との間にも平和を実現する力を持つ者とされているのです。
十字架の主イエスこそ、平和の砦です。

 

平和を実現する人々は、幸いである(1)

平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイによる福音書5章9節)

「平和」を、人々はどのようなものとして理解しているでしょうか。たとえば争いや対立がないこと、波風が立たないおだやかな状態を平和と見る見方があるかもしれません。「和をもって尊しとなす」という言葉もあります。
ただ、表面上波風が立っていない状態に見えても、実はその中身はいろいろです。「長いものには巻かれよ」という言葉もあります。自分の意見を言うと、必ず反対意見の人との間に摩擦が起こる。それはしんどいので、とりあえず長いものに巻かれておく。それが表向き平和な状態をつくっているということもあり得ます。あるいは、発言力の強い人に押さえ込まれて言いたいことが言えないということもあります。

国と国との関係を考えても、戦争のない状態がとりあえず平和な状態であると考えられることがあると思います。ただ、戦争がなければ平和な状態であると本当に言い得るでしょうか。第二次世界大戦後、世界は長く東西の冷戦と呼ばれる状況の中で、強い国同士が核の脅威によって戦争をおしとどめるという状態をつくってきました(残念ながら、それが今の世界の現実です)。
けれども問題は、軍事力によって表向き戦争のない状態を保っている世界が本当の意味で平和な世界であるのかということです。ある神学者は言います。政治家たちも世の人々も、平和ということと安全ということとをとりちがえているのではないか。平和と安全とは異なる。なぜなら、安全を求めるという場合には相手に対する不信感があるのであって、この不信感が再び戦争を引き起こすということになるからである。安全を求めるということは、自分を守りたいということである。しかし自分を守ることによっては平和は来ない。軍備を固めても、条約の締結を重ねても、平和は来ない。

そこで、聖書の語る「平和」の意味です。主イエスはここで旧約聖書における平和という言葉、ヘブライ語の「シャーローム」という言葉をそのまま受け継いでおられます。「シャーローム」はたんなる表側だけの平穏、波風のない状態を意味するのではありません。人々がただおだやかに生きているということ以上に、人々の間に愛と真実、正義と思いやりの関係が成り立っているということを意味する言葉です。
つまり、平和とは何もしないことだということではありません。平和にはもっと積極的な意味があります。そこに生きる者たちが隔ての壁を克服し、争いを解決し、愛をはぐくみ、思いやりを育て、おたがいに責任をもって、命のかよった交わりを築き上げる。それが聖書における平和という言葉の意味するところなのです。

そのことが理解されるなら、平和を実現することは実はやさしいことではない、と言うよりも並大抵のことではないことがわかってくるのです。平和を実現するためには、労苦とたたかいがともなうのです。この世の罪とのたたかいです。
わたしたちは自分自身もまた平和を乱す者であることを知っています。ときに自分自身が争いの火種をつくってしまう、対立のきっかけとなってしまう、そういう者であることを知っています。その点では平和を実現するためには、自分自身も変えられなければならないのです。古い罪の自分とたたかい、自己中心の思いを捨てなければならないのです。

心の清い人々は、幸いである

心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
(マタイによる福音書5章8節)

主イエスは言われます。「心の清い人々は、幸いである」。心の清い人とは心の汚れを修行や鍛錬によって追い払うことのできる人、世の汚れに身を染めることがない強い心をもつ人、あるいは心の中が純粋無垢な、幼子のような人のことであるとの理解があるように思います。ここでは、そういう意味ではありません。
ここでの「心の清い人々」とは、人は自分の力で自分の心を清くすることはできないけれども、神にはそのことがおできになることを知るゆえに、神のもとにおもむいていく人々です。そのような人々は、神の恵みを受けて、罪に染まった心を清くされるのです。罪によってさえぎられていた目を開かれ、「神を見る」のです。

主イエスは言われます。「その人たちは神を見る」。神を見ると言われると、何か神秘体験のようなことを思い浮かべる人々もあります。時々、わたしは神を見た、夢の中に神が現れた、神秘的な恍惚状態の中で神にお会いしたという人があります。ここでは、そういう意味ではありません。
神を見るとは、霊において見る、霊的なまなざしをもって見るということです。つまり神を見るとは、神との祝福された出会いと交わりを言う表現なのです。
そして、わたしたちが神を見ることができるとすれば、その道はただひとつです。わたしたちが神を見るのは、イエス・キリストをとおしてです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネによる福音書1章18節)14章9節「わたしを見た者は、父を見たのだ」(同14章9節)
主イエスと出会う。主イエスがわたしたちと出会ってくださる。その時わたしたちはすでに神を見、神と出会っているのです。

以前NHK教育テレビの「日曜美術館」という番組に(その日はジョルジュ・ルオーというフランスの画家を取り上げていたのですが)作家の鹿嶋田真希さんがゲストとして出演しておられました。この方は高校生のときにハリストス正教会で洗礼を受けられ、ハリストス正教の神学生の方と結婚されたのですが、御主人が脳の病にかかり、重い障害を負われることになりました。その苦難を見つめながら小説を書いてこられたのです。
その番組の中で、ルオーが死の直前に、最後に描いたキリストの肖像画が映し出された時、鹿嶋田さんはこう語っておられました。これはまさに今はりつけにされようとしておられるキリストの御顔です。けれどもわたしは、この御顔にすでに復活の光が射しこんでいるのを見ます。この光があるので、人は(わたし自身も)生きていかれるのだと思います。

心の清い人、すなわちキリストを求め、キリストを仰ぐ人は、神を見るのです。キリストを見るのです。そしてわたしたちが神を見るというのは、真空状態の中で見るということではありません。人生の苦難のただ中で見るのです。苦しみや試みのただ中で、神はわたしたちにその御姿を現してくださるのです。それゆえにマルティン・ルターは言いました―苦難の中でこそ、試練の中でこそ、わたしたちはすべての世の知恵をこえる知恵である神の言葉がどれほど正しく、どれほどまことで、どれほど好ましく、どれほど強く、どれほど慰め深きものであるかを知り、また体験するのである。

神を見る。キリストをとおして神を見る。それはどのような苦難の中にも光と希望を見る、そういう人生を生きるということです。今すでにわたしたちは神を見る幸いに生かされています。キリストが共におられるからです。