見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

弟子たちは、主を見て喜んだ

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
ヨハネによる福音書20章19、20節)

十字架に死なれた主イエスは、三日目に墓を破って復活されました。そして愛する弟子たちにも、復活の御姿を現してくださいました。
その日、彼らはどうしていたでしょうか。ひとつの家に集まって、「家の戸に鍵をかけて」(19)いたのです。彼らは十字架の主イエスを裏切り、見捨てた罪に打ちのめされ、心を閉ざしていた。家の戸だけでなく、心にも鍵をかけていた。「生ける屍」という言葉があります。彼らはまさに、生きながら死んでいたのです。「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)

そのように罪のゆえに生きながら死んでいた、罪ゆえに生きる意味と望みを失っていた弟子たちに、主イエスはみずから出会ってくださいました。彼らが集まっていた家に来られ、中に入っていかれました。
入って来られたのが主イエスであるとわかって、弟子たちは狼狽したにちがいありません。大きな恐れと不安に押しつぶされそうになったにちがいありません。では、主イエスは彼らを叱責なさったのでしょうか。彼らを厳しく断罪されたのでしょうか。
主イエスは彼らに、あなたがたに平和があるようにと仰せになったのです。すなわち、あなたがたの罪は赦されたと仰せになったのです。平和とは、神との和解です。そして人間同士の和解です。和解と平和は、罪の赦しの恵みによってもたらされるのです。

そして主イエスは「手とわき腹とをお見せに」(20)ました。ご自身の両手に刻まれた釘の跡と、わき腹を槍で突き刺されたその傷跡をお見せになったのです。それを見て、弟子たちは「喜んだ」(20)のです。恐れと不安と後悔と自責の思いにさいなまれ、生けるしかばねのようになっていた彼らが喜んだのです。そして、彼らは息を吹き返したのです。復活の主に出会って、彼ら自身も新しい命に復活したのです。
つまり主イエスの手の釘の跡と、わき腹の傷跡を見て、彼らははじめて十字架の意味をさとったのです。なぜ主イエスが十字架に死なれたのかということを理解したのです。主の釘の跡と脇腹の傷は、わたしたちのためであった。わたしたちの罪を赦し、わたしたちの弱さや恐れや不安をともに担ってくださるために、主は死んでくださった。それほどまでに主はわたしたちを愛してくださった。この大いなる愛をもってわたしたちの命を生かしてくださるために、主は甦ってくださった。

このことを知ったとき、弟子たちの心から恐れが消えたのです。そして心の底から大きな喜びがわきあがったのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。福音書はただひと言、実にそっけなく書いているだけです。けれども、おそらく福音書の記者は万感の思いをこめてこの一言を記したのだと思います。弟子たちの喜びはどれほどのものであったことでしょうか。
これが、復活を信じる喜びです。甦られた主イエスがわたしたちに与えてくださったもの。それは人間のいかなる罪や恐れ、不安や絶望にも負けることがない喜びです。罪人を赦し、生かす神の愛に生かされる喜びです。神にある愛と平和、永遠の命の祝福と望みです。
これらのものを受けて、弟子たちは喜んだ。大いに喜んだ。だからこそ、彼らは力に満ちて主の福音をのべ伝える働きへと召し出されていったのです。復活の主に出会った後、彼らは別人のように変えられました。その秘密は、この主イエスの大いなる愛にあったのです。主の愛が彼らを別人にしたのです。
主イエスを信じるすべての者たちに、この喜びが与えられます。この喜びはわたしたちのものでもあるのです。

復活(4)

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25、26)
この主イエスの御言葉について、ふたつの面を理解する必要があります。ひとつは、キリストを信じる者たちにとって死は終わりではないということです。実に死は、永遠の命の入口です。主イエスは三日目に墓を破って復活されました。その主イエスの復活は、主イエスを信じる者たちの復活の初穂であると聖書は語ります。わたしたちも主イエスと同じように復活する。新しい命、永遠の命に復活する。死を超える命を生きる。したがって、わたしたちにとって死は新しい命の始まりです。主イエスが甦られたことは、そのことの確かな、揺るぎない証拠なのです。

もうひとつのことがあります。復活の命、永遠の命は、地上の命が終わってはじめて与えられる命というのではありません。主イエスは永遠の命に復活され、そして今も、永遠に生きておられます。そしてわたしたちはその主イエスに、命そのものであられる方に今すでに、日々の生活にあって結びつけられています。それは今ここで、キリストにある復活の命、永遠の命に生かされているということです。
なぜなら、わたしたちはもはや罪の支配のもとにはないからです。主イエスは十字架の上で、わたしたちの罪の代価を身代りに支払ってくださった。そのことによって、生まれながらにわたしたちを支配していた罪は取り除けられたのです。
主はわたしたちに死をもたらす罪を贖ってくださいました。それゆえ、わたしたちはまことの命の喜びに返らされたのです。息を吹き返したのです。復活の命、新しい命、キリストにある永遠の命を得たのです。

復活(3)

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25、26)
わたしたちは知っています。よき羊飼いなる主イエスは、わたしたちに死をもたらす罪とたたかってくださいました。あの十字架の上で、わたしたちから命を奪い、喜びを奪い、望みを奪う恐るべき狼とたたかってくださいました。そしてわたしたちの罪の代価の身代わりとなって死なれることによって罪を贖い、死を滅ぼし、永遠の命に甦られたのです。

なぜなら、わたしたちを愛してくださったからです。主イエスが死なれたこと。三日目に墓を破って復活されたこと。それは神の愛による出来事であったのです。主イエスの復活の命は、永遠の愛の命です。神は永遠にわたしたちを愛してくださる。死の壁、死の限界をもうちやぶって愛してくださる。使徒パウロは言います。「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配する者も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:37~39)

この神の愛が、わたしたちを生かすのです。愛の神に生かされることによって、わたしたちの命は真に幸いなる命、喜ばしい命とされるのです。この命を知り、この命に生かされることによって、わたしたちの命と人生の土台がしっかりと、根本から据えられるのです。
わたしたちが主の日ごとに教会に集まるのは、イエス・キリストの甦りを記念するためです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。そのように仰せになる方を仰ぎ見るためです。わたしたちの死は、すでにキリストの命にのみ込まれている。その大いなる救いの祝福を喜び合うためです。

復活(2)

死とは何でしょうか。死は、自然に来るものだという理解もあります。植物が花を咲かせ、実をつけた後枯れて行くように、行きとし生ける者はやがて衰え、死に至るというのです。けれどもそのように考えられているところでは、たとえば死が迫って来たとしても、生きとし生ける者はやがて自然に命を終えるのだから、というような言わば安易な、その場かぎりの慰めが語られて、それで終わってしまうことでしょう。死の持つ本質的な意味もあいまいにされてしまうことでしょう。
そうであるならば、死への解決も、死の克服も、死に対する命の勝利ということも、見出されることのないままで済まされてしまうことでしょう。人間にとって本当に大切な問題である死の解決ということが、宙ぶらりんのままになってしまうのです。

使徒パウロはどう言っているでしょうか。パウロは人間の命と死とを深く、鋭く、すこやかにとらえる目をもつ人でした。そのパウロは、死を敵であると言うのです。コリント第一書の15章で、パウロは死を「最後の敵」と呼んでいます。死は人間とこの世界から喜びを奪い、希望を奪い、まことの命を奪う敵です。この敵とたたかわなければ、この敵に勝利しなければ、命はないのです。救いはないのです。
この最後の敵は、聖書によればはじめから存在していたものではありません。後から入って来たものです。創世記を見ると、最初の人間-始祖アダムは罪なきものとして造られました。神はアダムを死を見ない者、永遠の命を生きるべき者としてお造りになったのです。

では、死はいつ入ってきたのか。エデンの園で、アダムが木の実に手を伸ばした時です。それは神の言葉への不従順でした。アダムは造り主に背き、自分が神になろうとしたのです。罪とは造り主に従わないことです。造り主への不従順として、死が入った。アダムは死ぬ者となり、彼にあって全人類も死ぬ者となった。つまり、死は罪の報いとして来たのです(ローマ6:23)。
聖書が教えているのは、人間の命と死の問題は造り主の御前ではかられるべき事柄であるということです。聖書のものさしは単純明快です。神と共にあるなら、人は生きている。肉体が死に直面していたとしても生きている。神こそ、命そのものであられるからです。反対に神のもとを離れてしまっているなら、その人は死んでいる。たとえ肉体はぴんぴんしていても、死んでいる。罪と死の法則に支配されたままだからです。

そうであるなら、人が生きるにはどうすればよいのか。すこやかな命を回復するにはどうすればよいのか。命の神に、造り主のふところに帰っていけばよいのです。
聖書は、罪ゆえに死んでいた人間が父なる神のふところに、きびすを返して帰っていくことで文字どおり復活した、幸いな命を取り戻した、そうした例を数多く語り示しています。ルカ福音書15章に記される放蕩息子もしかりです。同じルカ福音書19章に記される徴税人ザアカイもしかりです。そして、主イエスに従って生きた弟子たちもまたそのようにして生かされた、命の恵みの証人です。
死は敵です。それゆえに滅ぼされるべきもの、勝利を得るべきものです。そして、死は滅ぼされたのです。死に対する勝利がもたらされたのです。「わたしは復活であり、命である」と仰せになった方が、死を滅ぼしてくださったのです。死に勝利してくださったのです。

復活(1)

イエス・キリストの復活を信じることは大きな恵みであり、利益です。何よりも、キリストの復活を信じることによってこそ、わたしたちははじめて生きることの意味を知ることができるのです。復活のキリストのもとでこそ、わたしたちは人生の意味を見出すことができるのです。

現代社会を生きる人々の中に、生きることの実感、命の実感が重みが失われているということはないでしょうか。この時代と社会において、人の命があまりにも軽んじられていることを思わされる場面に、わたしたちはしばしば遭遇します。おたがいの命を重んじる、大切にするということを忘れてしまったようにさえ感じられることがあります。生きることの手ごたえを感じないままに生きている。自分の命も、他人の命も、あまり価値がない、吹けば飛ぶようなもののように扱ってしまう。そこにはおそらく、生きることの実感も薄れてしまっているでしょう。また死を恐れることさえできなくなってしまっているでしょう。

わたしたちもまた、この世の無感覚というものにのみ込まれてないだろうか。そう問わされます。命と死の事柄をすこやかに受け止める、命の重みをすこやかに感じとる霊的な感覚を取り戻すこと。死をまっとうに恐れ、命を喜び、人生を正面から受け止め、真剣に生きる感覚を回復させられること。それが現代における課題なのだと思います。そして、このことは教会に生きる者たちにとっても課題なのだと思います。

では、わたしたちはどこですこやかな命の感覚を回復することができるのでしょうか。生きることの手ごたえ、命の喜びと重みをあるべきしかたで受け止める健康な魂を、どこで取り戻すことができるのでしょうか。甦られたキリストのもとにおいてです。復活のキリストの御言葉、命の言葉に聞き、キリストの命に生かされることによってです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25、26)。このように仰せになる方こそ、死とは何か、命とは何かということを正しく教え示してくださるのです。

御手にわたしの霊をゆだねます

まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
わたしを贖ってください。
詩編31編6節)

詩編にあるこの祈りの言葉は、後に就寝のおりの祈祷文となったと言われます。「わたしたちの身も魂も、いっさいを御手にゆだねます。あなたの御使いがわたしを守り、悪魔がわたしを支配しませんように」。これはマルティン・ルターの祈りです。

また、この祈りは臨終の祈りともなりました。「父よ、わたしたちの霊を御手にゆだねます。わたしたちの地上における最後の言葉を、主よどうぞお聞きください」。これはカバディールという改革者の祈りです。わたしたちもまたこのように祈って地上を去っていくことができるのです。

もうひとつのことがあります。詩編31編は、目覚めていて恐れに取り囲まれて生きている者の詩であるということです。「イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(マタイ23:46)。主イエスが十字架の苦しみのただ中でこの詩編の祈りを祈られたことには、おそらく深い意味が込められています。いまわのきわの苦しみ、というのではなくとも、四方八方を恐れに取り囲まれて生きるということがわたしたちの地上の人生に、また生活の現実にしばしばあるのではないでしょうか。しかし、そのような時にもわたしたちは父の御手にいっさいをゆだねて生きることをゆるされているのです。

キリスト者の歩みは信仰の歩みです。信仰とは自分に頼ることをやめ、神の御手に信頼することです。父よ、御手にゆだねます-これは決して現実逃避の祈りではありません。なぜならこの祈りは、十字架のたたかいを最後までたたかいとおされた方が祈られた祈りだからです。この祈りは、霊のたたかいの祈りです。命の勝利の祈りです。

主の恵みを心に刻む

わたしの魂よ、主をたたえよ。
わたしの内にあるものはこぞって
聖なる御名をたたえよ。
わたしの魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓から贖い出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。
詩編103編1~5節)

「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(2)。詩人は自身の魂に語りかけます。主の御計らいを、主がこれまでの自分の人生においてあらわしてくださった恵み深き御業を何一つ忘れてはならない。そのすべてを心に刻め。
主は憐れみ深く、恵みに富んでおられ、被造物である人間に対して大きな慈しみを示してくださる方です。そのような方が自身の造り主であられること、その方をあがめて生きることをゆるされていることそのものが、人間における喜びなのです。

では、心に刻むべき主の恵みとは何でしょうか。「主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し/命を墓から贖い出してくださる」(3、4)
主なる神が人間にほどこしてくださるよき御業。それは罪の赦しの御業です。神は自由なる恵みをもってわたしたちの罪を赦し、わたしたちの罪の根元を断ち切り、わたしたちを義なる者としてそのふところに受け入れてくださいます。もちろん御子の十字架の贖いにより、御子の尊き血潮によって、この御業を成し遂げてくださるのです。
罪の赦し。それは人間に対するあらゆるよきことをもたらす恵みの源です。神は御子キリストの十字架の贖いによりわたしたちの罪を赦し、わたしたちの命と存在を新しくし、わたしたちを再生し、罪と悪から清め、よき生活へと呼び戻してくださるのです。

主は病をすべて癒してくださるとうたわれるとき、これをただ肉体の病の癒しとしてだけ解釈するのはあまりにも狭い理解です。ここで詩人の病を癒す神の医薬とは、罪の根を絶やし、人間を新しい命に生まれ変わらせる、そのような根本的な癒しを意味しています。
それは聖霊の御業です。そのことは、聖霊なる神によってのみなし得ることです。まさしくそれは、墓にくだる定めにあった者が死と滅びから救い出されることです。これこそ人間における根本的な救いです。この大いなる救いを知るゆえに、詩人は11節でうたいます。「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」。