野球中継を時々視ます(どこのチームのひいきかは、お察しがつくと思います)。
ある方が書いておられました。投手が打者にホームランを打たれる。ショックであろ
う。落胆が大きいであろう。
けれども、次の打者に向かうまでの時間はきわめて短く、そのきわめて短い時間の間
に、すぐ前に起こったことを引きずらず、気持ちを立て直さなければならない。
野球中継を視ていて、この視点はあまりなかった。けれども、そうでなければ投手はで
きないのですね、確かに。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
(ルカ10:33、34)
自分を高めること。自分の力で何かをやりとげること。自分が価値のある存在であることを証明すること。そうしたことに生きる目当てをさだめているひとは、階段をのぼることに忙しい。まわりのこと、ほかのひとのことは目に入らない。ひとびとを置き去りにし、追い抜いていく。特急列車のように。
イエスさまについていくひとは、立ち止まることができるひとだと思う。各駅停車の列車のように。ゆっくり、ところどころで足を止める。そうすると、いろいろなことに気づく。隣りにいるひとの顔が見える。喜びやかなしみ、苦しみや痛みが見える。
イエスさまは「善いサマリア人」のたとえをお語りになった。あるサマリア人が、強盗におそわれ、傷ついて道に倒れていたユダヤ人を介抱し、助けた。サマリア人にとって、ユダヤ人は敵だったにもかかわらず。
サマリア人も、道を急いでいたかもしれない。急ぎの用事があったかもしれない。傷ついたひとを助けるには、時間もお金も必要。きっと損をしたはず。
けれどもイエスさまは言われた。あなたたちも、このサマリア人のようにしなさい。
イエスさまにならい、愛の道を歩むこと。ひとびとに寄り添い、その重荷を背負うこと。愛の労苦を担うこと。愛するゆえに、負わなくともよいはずの重荷を引き受けること。
それらはこの世では、何の価値も持たないかもしれない。愚かなこと、と笑われて終わってしまうようなことかもしれない。
けれどもイエスさまのもとでは、天の国では、宝石のような価値をもつのだと思う。
ひとの喜び、かなしみ、痛み、つらさ。それらを繊細に感じ取る、ふるえるこころ。それは弱いこころなんかじゃない。神さまがくださった贈り物。
この贈り物をたずさえて、愛の道を歩んでいこう。
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 (マタイ18:22)
あるとき、弟子のペトロがイエスさまに質問した。わたしに対して罪をおかしたひとを、何回ゆるすべきですか。七回までですか。
ゆるすことはむずかしい。そのことを知っていてペトロは、七回までがぎりぎりのところだと考えたんだろう。
けれどもイエスさまはお答えになった。七の七十倍までゆるしなさい。
四九〇回、ということではない。かぎりなく、ということだ。
自分に罪をおかしたひとを、かぎりなくゆるす。そんなことができるのだろうか。でも、イエスさまがお命じになったこと。聞きのがすわけにはいかない。
覚えておくべきこと。それは、わたしたちもゆるされたひとりひとりだということ。イエスさまは十字架の上で、わたしたちの罪を背負って死んでくださった。イエスさまの十字架のみわざは「贖い」と呼ばれる。代価を支払って、罪人を無罪放免すること。
わたしたちは日々、罪をかさねている。自分が何をしているのかわからないまま、気づかないうちに罪を積み重ねている。それは目に見えない。けれども日ごとの罪がすべて記録されたなら、借用証書が書かれるなら、どれほどの高さに積み上がるだろうか。
そのぼう大な借金を、神さまはすべて帳消しにしてくださった。イエスさまの贖いの血によって。わたしたちの弱さ、苦しみ、恐れ、痛み。それらをきわみまで知りぬいたうえで、イエスさまはわたしたちをゆるしてくださった。十字架のゆるしの恵みによって、わたしたちは新しい人間に生まれ変わった。わたしたちの命は、息を吹き返した。
だから、わたしたちはおたがいにゆるしあうことができる。イエスさまの恵みによって。
ゆるしには大きな力がある。憎しみと争いの鎖を断ち切り、和解の喜びと愛の交わりをつくりだす力が。
わたしがゆるすのではない。わたしは審判者ではない。わたしの主人はわたしでなく、イエスさま。だから、ゆるしの恵みを祈り求めよう。
そこに、新しいことが起こる。わたしたちが気づいていなくとも。
聖霊が働いてくださる。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(二コリント12:9)
パウロには病気があった。その苦しみは、とても大きなものだった。だから彼は、この苦しみを取り去ってくださるようにと、神さまに何度も祈った。
でも、彼の祈りは聞きとどけられなかった。彼は死ぬまでこの病気を背負っていくことになったんだ。
けれども、実は神さまは彼の祈りにこたえられていた。聞きとどけないというしかたで、こたえられていた。病気はいやされなかった。けれど、神さまははっきりしたこたえをくださった。わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は、あなたの弱さのなかでこそ十分にあらわされる。
パウロは自分に与えられた病気を「とげ」と呼ぶ。けれども彼は、このとげを恵みのとげと考えている。なぜなら、この病気は自分が思い上がることのないように、神さまがくださった贈り物だとわかったから。
つまり、このとげがあるからこそわたしは自分の弱さを知ることができた。このとげがなければ、もしかするとわたしも自分は強い人間だと思い上がり、神さまを捨ててしまったかもしれない。そうすることで、神さまからいただいた恵みを失ってしまったかもしれない。そうならないように、神さまはわたしにこの貴重なとげを与えてくださったのだ。
このとげがあったから、パウロは思い上がる誘惑から守られ続けた。神さまのもとを離れることがなかった。神さまにつながれ続けた。神さまはひとに驚くべき救いの真理をさとらせ、イエスさまの命の祝福のもとに生かしてくださる。その恵みに生き続けるために、パウロのつらい病も用いられたんだ。
神さまの贖いと命の力は、人間の弱さのなかであらわされる。イエスさまの命の宝は、土の器のもろさとはかなさのなかでこそ輝き出る。
だからパウロは、わたしは自分の強さをではなく、弱さを誇ろうと語った。わたしは弱いときにこそ強い。そのように言うことができたんだ。
卑しめられたのはわたしのために良いことでした。/わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。(詩119:71)
詩編の詩人は言う。苦しみが与えられたのは、わたしにとって良いことだった。苦しみが、良いこと。いったいなぜ、そのように言えるのか。
なぜなら、苦しみはひとを神さまと結びつけるから。苦しみの中で、ひとは神さまを仰ぐ。それは人間にとってよきこと。
反対に、神さまから離れることはわざわい。そして、すべての苦しみは神さまから離れてしまうところから来る。人間には生まれながらに、神さまから離れようとする思いがある。神さまから離れても、自分だけで生きていける。そういう高ぶりがある。けれどほんとうは、人は弱い存在。神さまがおられなければ、生きていくことができない。
ひとがしあわせに生きるためには、神さまと結ばれていることが必要だ。そして、ここで苦しみは役に立つんだ。なぜなら、苦しむことで人の高ぶりは砕かれるから。苦しみにあうとき、人は自分の弱さと無力を思い知らされる。そして、いったい自分は何ものなのかをあらためて知らされる。つまり、ひとは苦しみの中で、自分の存在の原点に立ち戻らされるんだ。
だから詩人は言う。卑しめられたのはわたしのために良いことでした。
卑しめられたとは、神さまのみ前で低くされたということ。神さまなんかいらない、そういう高ぶりを取り除かれたということ。神さまの前で、ひとりの人間にかえったということ。
そして言う。わたしはあなたの御言葉を学ぶようになった。御言葉の真理を、すなわちひとは造り主なる、父なる神さまの守りと支え、愛といつくしみなしには生きられないものであることを深く理解した。神さまと結ばれているそのきずながどれほどたいせつなものであるのかを知らされた。
そして、神さまのふところに戻ることができた。だから、苦しみによって卑しめられたこと、へりくだらされたことは、わたしにとって良いことだった。
イエスさまのもとでは、苦しみの意味が変えられるんだ。イエスさまにある歩みのなかで、苦しみさえも利益となって用いられるんだ。
わすれてはならない。苦しみのただ中に、イエスさまがともにおられる。
わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し…。( イザヤ43:4)
ある男性はひとりの女性を好きになり、彼女にたくさんプレゼントをした。高価な品もいとわず、買い求めて贈った。でも、彼女の心をとらえることはできなかった。
ある女性は交際をはじめた男の人に気に入ってもらおうとして、彼の言うことにすべて従った。ときに理不尽と感じる求めにも、嫌われることがこわくて従順にこたえた。でも、そのうちに彼の無理強いはだんだんと度をこしたものになっていった。
ある学生はお父さんの期待にこたえようと猛勉強をして、大学に合格した。けれどその後、深いむなしさを覚えるようになった。目標を果たし、お父さんにも喜んでもらえた。でもいったい自分は何のために、だれのために生きているのだろうかと考え込んでしまった。
愛にはふたつのかたちがあると言われる。ひとつは「だからの愛」。そのひとが愛する価値のあるひとだから愛するという愛。相手が健康で、若く、お金があり、地位があり、能力があるから愛する。
でも、ちょっと待って。だとしたら、相手が年をとり、病気になり、お金や能力を失ってしまったなら、愛は消えてしまうのか。愛とはそんなにもろく、はかないものなのか。
もうひとつの愛がある。それは神さまの愛。神さまは無条件で、わたしたちを愛してくださる。わたしたちに何ができるか、どういう資格があるのかをいっさいお問いにならない。なぜなら、神さまの目にはわたしたちの命と存在そのものが価高く、貴いから。神さまは君を、君であるままにわが子よと呼んでくださり、愛してくださる。永遠にその腕のなかに抱きとめていてくださる。
神さまの愛は、「それでも」の愛。君がどのようなひとでも、君を愛してくださる。君の存在そのものをいとおしんでくださる。
これこそが本当の愛。この愛のなかで、君はしあわせに生きることができる。