見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

信仰の法則によって

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
(ローマの信徒への手紙3章27節)

パウロはここで、人の誇りは取り除かれたと語ります。ここで「誇り」とは「土台」という意味です。つまりパウロは人が自分を土台とし、自分を頼みとして生きる道は取り除かれたと語るのです。しかも、大きな喜びにうながされつつ。

わたしたちはパウロの言葉にただちに同意することができるでしょうか。わたしたちはこれまで生きてきた人生において、家庭や学校や職場や社会の中で、自分を誇り、自分を土台として生きるべきことを奨励され続けてきたのではないでしょうか。社会の荒波の中で、信じ、頼ることができるのは自分だけだと教えられることしばしばであったのではないでしょうか。

聖書の語るところに耳をかたむけたいのです。人は生まれながらに、行いの法則を選び取ります。自分を土台として生きる傾向を宿しています。そして、そこにこそ人の罪があらわにされます。神の選びの民であるユダヤ人もまたそうでした。彼らは自分たちを最高に誇り高き人間とするために、律法や割礼といった神の恵みのしるしさえも、自己実現と自己満足の道具に変えてしまったのです。

人は本来自分を誇って、すなわち神から離れ、自分を絶対者として生きるべきではありません。造り主なる神を誇って生きるべきです。神の恵みに生かされて生きるべきです。それが創造の秩序であり、被造物の生きかたです。その点で、人間の生きる道はあれか、これかであったはずです。

そのことを踏まえつつ、パウロは言うのです。人の誇りは取り除かれた。今やわたしたちはキリストの十字架の贖いによる罪の赦しと、甦りの命の恵みをよりどころとし、この神の恵みにいっさいを委ねて生きる者とされた。神が人の誇りを取り除けてくださった。そして人を本来の道、まことの命に至る道、神を誇って生きる道へと導き返してくださった。
行いの法則に生きていた者が、信仰の法則に生きる者とされる。それは根本的な転換です。その者は、キリストの霊によって新しく生まれた者です。新しい命を生き始めた者です。

キリストの福音を、真理の言葉を聞いた今、もはやわたしたちは自分を誇って生きる必要はないのです。キリストというまことの命の土台を知った今、自分自身の経験や能力や知識に、あるいは過ぎ去っていくこの世の知恵に、自分の大切な命を託す必要はないのです。自分で自分を支える必要も、自分で自分を慰める必要もないのです。
キリストがわたしたちを支え、慰めてくださいます。この方のもとで、いっさいの重荷をおろすことができます。信仰の法則に生きる者は、この大きな恵みを知っているのです。
     

「内なる人」の領域

たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
(コリントの信徒への手紙二4章16節)

「内なる人」の領域は神のみ手の領域であり、そこで神は自由なみこころによって、恵みのみわざをふるわれます。そこではいっさいの人間のわざは手控えられねばなりません。そしてこの神の領域はあらゆる人間的な、この世的な価値観や常識がくつがえされていく場所です。この世の、人間の常識やわざや力はやがては朽ちていくものです。そしてそれらは究極的な「落胆」であるところの死の力の前では無力です。
これに対して主なる神は、この世と人間の限界をうち破り、人間をまことに生かし、そしてご自身の創造によるこの世界をまことに支配する権威と力とを持っておられるのです。

「内なる人」の領域は人が自分自身の真相、すなわち自分が土の器にすぎないということ、朽ちゆく者にすぎないということを見抜くことができず、自分を主人とし、自己実現と自己追求にひたすらに突き進んでいるところでは、まったく見えない領域です。わたしのわざ、わたしの行い、わたしの内なる何らかのものに目が向けられているかぎりは隠され続けている領域なのです。しかし神の憐れみによって霊の目を開かれるときに、人ははじめてそこを見ることをゆるされます。
ファリサイ派の学徒であったときのパウロの目には「内なる人」は見えなかったでしょう。復活の主イエスが彼に出会ってくださり、彼の目を開いてくださいました。「内なる人」の領域を知らされたパウロは、神の真理は人間のこの世的な強さの中でではなくむしろ弱さの中で、苦難や試みのただ中で、土の器の限界の中でこそあらわされるとの真理を語りました。神の力は、それまで大手をふるっていた人間の、またこの世の力が退き、手控えられ、取り除かれたところでこそ鮮やかに啓示されるのです。

神は十字架の言葉(一コリント1:18以下)においてご自身を啓示され、この十字架の言葉においてわたしたち人間と出会われます。同時にこの十字架こそ、衣をはがされるようにして人間の真相があらわにされ、永遠者のみ手によって有限なるこの世と人間の地盤が吟味され、覆され、この世のいっさいの価値の逆転ということが起こる場所です。十字架の愚かさにつまずかない者は幸いです。なぜならそこは人間がまことの神のみ手の中に取り戻され、第一の人、アダムにおいて失われていたすこやかな人間の姿へと回復される幸いな場所であるからです。人は十字架のもとでこそ、アダムにあって失っていた楽園を仰ぎ見るのです。

包装

街の片隅の小さな店で
小さな贈り物を買い求めた

レジに座っていた店員は
少女のような若さだった
品物を渡すと
包みますか と小声で訊いた
お願いします と私は言った

彼女はそれを包み始めたが
手許がおぼつかない
じきに 紐はたるみ
包装紙には皺が寄り

何とか包み終えた品物から
悲しげに顔をそむけた

本当は
店に入ったときから
彼女はずっと悲しげだったのだ
品物を選ぶことよりも
そちらのほうに気をとられていて

ちょっと大事な人への贈り物だったのだが

そのままでいいです と
心の中で
言って
包みを受け取った

主語は神

主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は世々に及ぶ。
詩編100編5節)

ここでの主語は主なる神です。主は恵み深い。主のいつくしみは永遠に変わらない。主の真実も永遠に揺らぐことはない。つまり5節は、人間の側の真実、あるいは人間がどのようであるのかということについては一言も触れていないのです。

詩編の詩人たち、また旧約聖書の信仰者たちの信仰を見ていくときに気づかされる顕著な事実は、個人的な、あるいは主観的な感情や神体験からその信仰が語られることは例がないということです。つまり、そこでは人間の側の気分や感情によって左右されてしまうような信仰について語ることはいっさいないのです。

信仰者たちが語るのは神のみわざ、神がこの歴史に起こしてくださった救いのみわざです。彼らはこれにより頼むのです。そのことにより、そこにあらわされた神の恵み、神の慈しみ、神の真実が時代を超え、場所を超えて変わることも揺らぐこともないとの事実が如実に示されるのです。

神と神の民との歴史は旧約と新約、古い契約と新しい契約とをつらぬく恵みの契約の歴史です。この恵みの契約において、神は誠実を貫きとおされました。神は古い契約の時代にアブラハムを召し、イサクを導き、ヤコブをお恵みになりました。この神こそイエス・キリストの父なる神です。この方は旧約の、長い準備の、全歴史を用意されたすえに、ベツレヘムの家畜小屋にご自身の独り子を生まれさせ、十字架上に死なせ、甦らせたもうたのです。独り子キリストの死と復活のみわざによって、世を救う新しい恵みの契約は成就したのです。

わたしたちの神はこの方です。哲学者、学者の神にあらず。アブラハム、イサク、ヤコブの神にしてイエス・キリストの父なる神です。

恵みにより(2)

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
(ローマの信徒への手紙3章23、24節)

24節の「贖い」とは、本来奴隷が自由の身となるために支払われるべき身代金、代価のことです。奴隷が自由になるためには、代価が支払われねばなりません。それが、なすべきことがなされるということです。
ところで「贖い」ということのひとつの意味は、奴隷が自力で積み立てた資産を主人に支払うということです。そうすれば、彼は自由の身となります。しかし、すべての人は(ユダヤ人と異邦人の別なく)始祖アダムにあって生まれながらに罪の奴隷であり、それゆえ自力によって自分を贖い、自由の身とすることはできません。義を積み上げることが代価を支払うということであり、義人となることが釈放の条件です。しかし、生まれつき不義なる者が義人となることは不可能です。それゆえ、人は死ぬまで罪の奴隷であり続けるほかはありません。
それこそが、人は生まれながらに罪に支配されていると聖書が語ることの意味です。そして「罪の支払う報酬は死」(6:23)です。わたしたちは、この生まれながらの罪と死のさだめからどのようにして救われ得るのでしょうか。

まことに感謝すべきことに、神はわたしたちを罪と死の束縛から解き放つために、独り子イエス・キリストを世に遣わし、この方をわたしたちのための贖いとなしてくださいました。
この方はわたしたちと異なり、罪のない方でした。その生涯において、完全なる義を貫き通されました。そのような方が十字架につけられ、死なれました。十字架は罪の刑罰です。もし罪人が十字架につけられて死ぬということがあるとすれば、それは彼が自分の犯した罪の代価を支払ったということにすぎず、それゆえ彼の死は人類の救いにも、彼自身の救いにもなりません。
しかし罪なき方が、にもかかわらず罪の報酬を支払いたもうたのです。義なる方が、にもかかわらず不義の刑罰を受けたもうたのです。すなわち、この方はわたしたちの代わりとして、あの十字架の上で尊き血潮を流されたのです。
神の子キリストはわたしたち罪人のひとりとなられ、わたしたちの罪の現実のただ中に入って来られました。そしてわたしたちの死をその身に引き受け、死なれました。これが贖いです。キリストの死は、わたしたちの罪の代価です。神に対して罪の代価を支払うべきはわたしたち自身でした。しかし、神は愛する独り子を十字架につけることにより、みずから尊き代価を支払ってくださったのです。
神は独り子を死なせるほどに、わたしたちを愛してくださいました。神のこの愛ゆえに、わたしたちは罪と死の牢獄から釈放され、自由の身とされたのです。これがキリスト・イエスの福音です。

命とは何か。罪とは何か。救いとは何か。この世にはさまざまな教えを説く人々があり、さまざまな救いの道が語られています。しかしわたしたちは、救いの道をこの世の言葉や知恵によっては知ることはできません。この世のどのような知恵者も、みずからを救うことはできません。天来の言葉に教えられることによってのみ、真の救いについて知ることができます。まことの神を知り、神の言葉である聖書に聞くことによって、人は罪から救われるための道筋をはっきりと見出すことを得るのです。

恵みにより(1)

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
(ローマの信徒への手紙3章21~22節)

3章21~26節はローマの信徒への手紙の重要な主題である神の義、信仰による義について論じる、この手紙の心臓部とも呼ばれる箇所です。21節に言われます。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」
手紙の著者である使徒パウロは、これまで始祖アダムにある全人類の罪の闇について語ってきました。ユダヤ人と異邦人とを問わず、みなアダムにあって罪のうちにはらまれて生まれてくる。義人なし、ひとりだになし。これが結論であったのです。

人類の罪は、人がそもそも神と共に生きるべき被造物として造られているにもかかわらず、造り主から離れて自分を神として生きようとする姿にあらわれました。異邦人たちは偶像を刻むことによって、そしてユダヤ人たちは律法を自己神化の道具とすることによって、おのおのこの罪を犯しました。自己を神とする道はすべての人間にとって袋小路でしかありません。生まれながらに不義なる者が、みずから神の義を行おうとする道は矛盾に満ちた、無謀な道だからです。3章20節に言われるように、律法を実行することによってはだれ一人義とされないのです。 

ここでパウロが語っているような事実、すなわち全人類が罪の中にあり、わたしたちのひとりひとりも罪の中に生まれ、生きているという事実を、わたしたちは自分自身の知恵によってはさとることができませんでした。聖書-神の言葉に教えられなければ、わたしたちはついにこの真理をさとることはなかったでしょう。あらためて確かめておきたいのです。神のもとでこそ、世界と人間の根本問題ははっきりと示されます。人間の救いの問題も示されます。つまり、真理は天からあきらかにされるのです。地上のどこからでもなく、天から真理は降りてくるのです。

キリストの救いは、天からまっすぐに地の上に降りてきた、神の恵みのみわざです。キリストによって神はこの世界の、また人類の歴史のただ中に来たりたもうたのです。そして神の義は、キリストによってわたしたちにもたらされたのです。不義のゆえに滅びるべきであったわたしたちを救い、永遠の命に至らせるために、神の義が(贈り物として!)わたしたちに手渡されたのです。

人類は罪の中にありました。地上は罪の闇に覆われていました。「ところが今や」(21)、キリスト・イエスの到来によって神の義が示されました。まさに暗闇から光が差し込み、黒雲の中から青空が現れました。神の救いのみわざがわたしたちが目で見、耳で聞き、手でさわることのできるものとして実現したのです。キリストの到来によって、まさしく新しい天と新しい地(黙示録21:1)が到来したのです。最初のもの、古い世界はもはや過ぎ去ったのです。