見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

新しい王

主は誓い、思い返されることはない。
「わたしの言葉に従って
あなたはとこしえの祭司
メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
詩編110編4節)

110編は110編は「王の詩編」というジャンルに分類される詩です。イスラエルの王の即位をうたうものです。詩人はここで王の即位式に列席しながら、神を賛美しているのです。
110編においてとりわけ目を留めるべきは4節です。「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)』。ここで主なる神は新しく即位した王に向かってあなたはとこしえの祭司、メルキゼデクであると仰せになっています。

メルキゼデクは創世記に出てくる祭司であり王でもあった存在です。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように」(14:18、19)。このようにアブラハムを祝福したメルキゼデクは王と祭司とを兼ねた存在でしたが、旧約聖書においては王は王であって、祭司を兼ねるという例は見られないと言ってよいと思います。そうすると、110編が新しく即位した王をメルキゼデクである、王であり祭司でもある存在であるとしているのはきわめて例外的な、注目すべきことであると言ってよいのです。

詩編110編がそのように王の姿を描いたのはなぜであったのでしょうか。そこにどのような理由があったのでしょうか。おそらくは、新しい王の姿を望み見たということであろうと思います。新しい王とはまことのメシア。すなわち、新約のイエス・キリストです。キリスト教教理ではイエス・キリストの三職ということを言います。「預言者」「祭司」「王」の三つの職務です。これらはすでに旧約聖書の時代から、神が特別にお立てになっていた職務でした。預言者は神の言葉を神の民に語り示しました。祭司は民の罪を贖うために、犠牲の小羊をほふってささげました。王は神の御心に従って民を統治しました。

この三つの職務をすべて成就なさったのが主イエスです。主イエスはまことの預言者です。なぜならこの方は人となられた神の言葉そのものだからです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)。
主イエスはまことの祭司です。なぜならご自身が犠牲の小羊となって十字架にほふられ、私たちの罪をあがなわれたからです。「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです」(ヘブライ7:27)。
主イエスはまた、まことの王です。「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイ21:4、5)。
使徒信条に言われるように、この方こそ全能の神の右に座し、世を統べ治めておられるまことの王なのです。

芙蓉

芙蓉の花は わずか一日で
命を終えるという
芙蓉の花は その一日を
意のままにすることはできない

その日がたまたま
猛暑であったとしても
嵐であったとしても
されるがままに灼かれ
あるいは よいように弄ばれ

苛酷だった一日の痕跡を おのおの
しばらくはとどめているのだろうか
こと切れた顔に
冷たい土の上で

取り返しのつかない一日であっても
芙蓉の花は その日を
元に戻すすべをもたない

 

 

アダムとキリスト(7)

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
(ローマの信徒への手紙5章20~21節)

20節でパウロは言います。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」。この言いかたは矛盾しているのではないでしょうか。人の罪が増し加わるところでは、神の怒りと呪いこそが増し加わるのではないでしょうか。それが神の義というものではないでしょうか。
しかし、人の罪が増したところには神の恵みが満ちあふれたのです。神は人の罪に対して、怒りや呪いをもってお臨みにはならなかったのです。実に、あふれんばかりの恵みをもってお臨みになったのです。
ここに神の愛があります。この愛によって世界は、わたしたちは救われたのです。

神はかつて旧約の選びの民イスラエルを、ご自身への不従順の罪ゆえに滅ぼし、捕囚の苦難をお与えになりました。しかし審判の時が満ちると神はイスラエルを赦し、預言者イザヤの口を通してこう仰せになりました。「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする」(イザヤ43:25)
ほかの理由はありません。イスラエルが自分で罪の贖いをなしたとか、そういうことではありません。わたしは全能の神であり、愛の神であるがゆえに、いつまでも人の罪に対する憤りをあらわし続けることをしない。わたしは人の罪を贖い、赦すことができるゆえに、わたし自身の自由をもってもはやイスラエルの罪を思い起こすことをしない―この御言葉は、第二のアダムの裂かれた体と流された血潮とによって文字通り成就したのです。  

この世界を支配しておられるのは主なる神です。わたしたちの命と人生を支配しておられるのもこの方です。そして神は、この世界の歴史とわたしたちの人生においてまことにくすしい、驚くべき計画を持っておられました。そしてその計画を第二のアダム、ご自分のひとり子イエス・キリストを通して実現されました。一人のアダムを通して、罪と死の悲惨がこの世界に入った。一人の人の不従順によって、全人類が不従順のもとに置かれた。しかし、それは実に全人類が神の恵みを知るためであったのです。独り子を十字架につける神の愛と憐れみを、すべてのアダムの子孫が知るためであったのです。すべて御子を信じる者が神の恵みと命の支配のもとで、神に従順な僕として生まれ変わるためであったのです。
神は第二のアダムを通してわたしたちに罪の赦しと永遠の命の恵みを豊かに注いでくださいました。そしてわたしたちを第二のアダムにあって生きる新しい、祝福された人間に生まれ変わらせてくださいました。そのことを知るとき、わたしたちもパウロとともに、ああ神の富と知恵と知識の何と深いことか、だれが神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう(11:33)と叫ばざるを得ないのです。 

アダムとキリスト(6)

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
(ローマの信徒への手紙5章18節)

神は第二のアダム―イエス・キリストをこの世界に遣わされました。闇を光に変え、死を命に変えるために、神の独り子が第二のアダムとして来たりたもうたのです。このことによって、世界の歴史とそこに生きる人間のありようがまさしく覆されたのです。

ふたりのアダムの共通点は、ともにその子孫に影響力を持ち、支配力をふるったというところにあります。第一のアダムは、彼のすべての子孫を罪ゆえに死なせることとなりました。しかし、第二のアダムの命と恵みによる支配も、そのすべての子孫に及ぶこととなりました。
そして、恵みの賜物は罪とは比較になりません(15)。第二のアダムの支配は、第一のアダムのそれとは比べものにならないほどに偉大なのです。第一のアダムは、第二のアダムに呑み込まれたのです。わたしたちのひとりひとりも、この世界も、もはや第一のアダムのもとにはないのです。今や世界の主はアダムではなくキリストであり、わたしたちの主もアダムではなくキリストです。
第二のアダム-キリストは、第一のアダムを罪と死の中に投げ込んだサタンの支配とたたかい、これを打ち破られました。このサタンに対する完全な勝利によって、すべてのアダムのすえを罪と死の縄目から解き放たれました。今や世界は、またわたしたちも、アダムからキリストへと移されています。死から命へと移されています。今なお古いアダムの残滓はわたしたちの中に残り続けていますが、すでにその支配力は決定的に奪われているのです。

第二のアダムの勝利は、世界全体、人類全体の歴史的転換です。第二のアダムによりもたらされたことは、この世界のさだめが覆り、死が死ではなくなり、絶望が希望に変わり、これまで世界と人間とを縛りつけていたあらゆる限界が取り払われる、そういう出来事であったのです。イエス・キリストとはそのようなことをなしたもうた方であり、イエス・キリストが救い主であるとはそのような意味なのです。第二のアダムによってこのわたしの人生が変えられたのみならず、世界のさだめも覆ったのです。
明治以来の日本のプロテスタント教会の信仰の特徴としてよく指摘されることは、信仰が個人的な領域にとどまってしまう傾向があるということです。神がわたしの生活の、わたしの家庭の、あるいはわたしたちの教会の神にとどまってしまうということです。しかし、神は大いなる方です。わたしたちは神を、わたしたちの手で小さな方にしてしまうべきではないのです。

聖書を通して、わたしたちは神がわたしの神でありたもうと同時に、世界と人類の主なる神でありたもうことを知ります。信仰とは神をわたしの手の中に置くということではありません。神の救いの歴史の中にわたしが引き込まれ、組み込まれることです。
そうであれば、信仰が個人的なものにとどまっているはずはないでしょう。わたしたちにとって大切なことは、天地創造から世の終わりの新天新地に至る、旧約の創世記から新約の黙示録に至る救いの全歴史をわきまえたうえで御言葉に聴き、救いの真理を把握し、教会や時代や世界の問題を考え抜いていく姿勢を養うことであると思います。そのような信仰の視野をきちんと据えていくために、アダムからキリストへの消息を鮮やかに語り示す5章12節以下は実に重要な箇所なのです。

アダムとキリスト(5)

一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
(ローマの信徒への手紙5章17節)

15~17節にはふたりの人―アダムとキリストとが並べられていると同時に、ふたつの支配ということも並べられています。ふたりの人に共通しているのは、おのおののなしたことがすべての人間にまで及ぶ支配力を及ぼすこととなったということです。アダムの罪はすべての人に死の支配をもたらしました。しかしキリストの十字架の贖いも、すべての主の民たちに命の支配をもたらしたのです。

わたしたちの罪を赦すキリストの十字架のみわざは、完全で十分なものとして成し遂げられました。今やアダムにある罪と死の支配は、キリストにある命の支配に取って代わっています。第一のアダムは第二のアダムに呑み込まれています。人はふたりの主人に兼ね仕えることはできません。アダムはもはや過去の人であり、わたしたちは今やキリストのもの、キリストの命を生きる者、まったく新しい人間です。
わたしたちの存在の根拠、命の土台はもはやアダムではなく、キリストです。キリストはわたしたちがこれまで犯した罪も、これから犯すであろう罪も、すべて除き去ることのできる方です。

もはやわたしたちは、神の顔を恐れてエデンの木の間に身を隠したアダムのようにして生きる必要はありません。罪人であるのに、罪なき者のごとくに神を、また自分自身を、隣人を偽って生きる不自由さから、わたしたちはすでに解き放たれています。今あるありのままの姿でわたしたちを愛してくださる方の恵みの座に近づくことができます。無償で、豊かに与えてくださるこの方の命にあずかることができます。そして、十字架のキリストのもとでおたがいを愛し、赦し、受け入れ合って生きることができます。これこそが第二のアダムに支配されて生きるということなのです。

このキリストの愛と自由の支配は、今すでにわたしたちのうちに始められています。わたしたちはキリストが生きられた、その同じ命に生かされています。キリストは罪と死に勝利した甦りの命をもって、今わたしたちを生かしてくださっています。それは目立たないしかたであるかもしれませんが、確かな事実です。わたしたちの日常の生活も、すでに甦られた主の御手にあります。

 

アダムとキリスト(4)

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
(ローマの信徒への手紙5章15節)

最初に創造された人間、全人類の代表、典型的人間、まさに人間そのものであるアダムから、罪と死は人類に入った。そのようにまことに鮮やかに、パウロは罪の起源を語ります。聖書によれば、罪と死とは表裏一体の関係にあります。死は罪の結果です(6:23)。
しかしパウロはもうひとりのアダム―イエス・キリストについても語ります。この第二のアダムが、ちょうど非常口の扉の前で待ち受ける救助隊員のようにして、わたしたちを罪と死とから救い出してくださったのだとパウロは言うのです。 

わたしたちは第一のアダムのさだめを背中に背負って生きています。そのようなわたしたちにとって、死は危機であり、最後の敵であり、わたしたちの命を妨げる隔ての厚い壁、出口なき袋小路です。
しかし第二のアダムの到来によって、死はその意味を大きく転換させられたのです。まさにキリストにあって、死は人間の分岐点、百八十度の転換点となったのです。危機から救いへの、滅びから命への転換点です。
罪と死からの救出は、ただひたすらなる神の愛と恵みによってなされました。ここでパウロは何度も「恵み」「賜物」という言葉を繰り返しています。それには深い意味があります。みずからの救いに関して、わたしたちは指一本触れなかったのです。わたしたちはまさしく救助されたのです。
そして、救助隊員が人命救助の際に命を落とすことがあるように、キリストはご自身の命とひきかえに、わたしたちを救い出してくださったのです。

アダムを通して全世界を覆うこととなった罪と死の法則を破綻させるためには、第二のアダムが聖霊によってマリアから生まれ、罪人のひとりに数えられ、苦しめられ、あざけられ、そして死ななければなりませんでした。第一のアダムのすえとして生まれたすべての人間の死を、ご自身の死と引き換えにしなければなりませんでした。それゆえ、神は御子キリストを第二のアダムとしてわたしたちのもとに来たらせ、死なせられたのです。
ここに神の愛があります。神は愛であられるので、わたしたちがもはや罪に苦しむことがないように、死の恐れに呑み込まれることがないように、御子を死なせ、甦らせられたのです。それゆえ「今から後、主に結ばれて死ぬ死人は幸いである」(黙示録14:13)。それゆえ「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)。

パウロはふたりの人-最初のアダムと第二のアダム-イエス・キリストとを並べて論じています。しかし、ふたりのアダムは決して同じ重さで立っているのではありません。わたしたちはここで、両方の皿に同じ重さの分銅を乗せて釣り合っている天秤をイメージすべきではありません。この天秤はあきらかに不均衡です。釣り合いを失っているのです。
つまり「恵みの賜物は、罪とは比較になりません」(15)。第一のアダムにある死の支配と、第二のアダムにある命の支配とは、比較にならないのです。恵みの力が、神の赦しと命の力が、罪と死の力をはるかに凌駕するのです。命が死を圧倒するのです。     

 

アダムとキリスト(3)

律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわ
けです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
(ローマの信徒への手紙5章13~14節)

5章14節は、第一のアダムは第二のアダムを前もって示す者であったと語ります。すなわち、両者には共通点があります。それは、ともに人間であるということです。ただし、第一のアダムは本来あるべきところから堕ちてしまった人間、あるべき自由を失ってしまった人間です。罪の報酬を支払って死なねばならない人間です。
それに対して第二のアダム-イエス・キリスト人間性は、罪なき人間性です。これは、実に罪を犯す前のアダムがまとっていた人間性なのです。神が人をご自身のかたちに似せてきわめてよくお造りになった、罪も死もない、永遠の命を生きるべき本来の人間のすがたなのです。

第二のアダムが来られたことにより、わたしたちは知らされました。第一のアダムにあって生きているこのわたしは、決して本当の命を生きているのではない。罪と死に支配された世界は、決してあるべき世界ではない。世界も、このわたしも、救いを必要としている。救われなければならない。
闇に浸りきっているうちはわからなかったけれども、光が来たことによってはじめて闇が闇として見えてきた。第二のアダムを仰ぐことによって、わたしたちはみずからが今どのようなありようであるのか、またどのようなところへと導かれねばならないのか、そこに至るためにどのような助けが用意されたのかがわかるようになりました。第一のアダムによって長く曇らされてきたこと―世界と人間の真実をはっきりと示す方として、第二のアダムは来られたのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。

大切なことは、アダムはすでに過去の人であるということです。今や、わたしたちはキリストのもの、キリストにある命を生きる者です。そうである以上、もはやアダムへと戻っていくべきではありません。罪や死の話を長々と続けるべきではありません。光の中へと招かれた者は、闇にいつまでも固執する必要はありません。
とは言え、わたしたちがアダムのことをつねに記憶しているのも大切なことです。神がわたしたちにいかに大いなる恵みを注いでくださったのか、いかに悲惨な境遇から救い出してくださったのかを思い起こし、神をほめたたえるためにです。