見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

2024-04-01から1ヶ月間の記事一覧

主の庭を慕う

万軍の主よ、あなたのいますところはどれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作りつばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、…

変化(2)

昨日のブログを読まれた方から、十字に切るのでは足りない、その作業を二度繰り返さねばならないとのご指摘をいただきました。がんばります。

聖書の読み方

「D・ボンヘッファーは、聖書をどのように読むべきかについて大切な示唆を与えてくれています。それは、聖書を読むことによって聖書とわたしたちの生活との間に「逆転」が起こるのだということです。たとえば聖書を人生訓、道徳訓、あるいは教養の書と見な…

変化

時に、生活の変化を求めたくなるものです。 今朝は、いつもはしないことをしました。朝食のウインナーの中ほどの部分から、包丁で十字のかたちに、ふたつ切り込みを入れてから焼きました。

オープンチャーチ

オープンチャーチのお話の、一部だけ。ルカ15章11節以下、「放蕩した弟息子」の箇所です。(通してお聞きになるには、岐阜加納教会ホームページへどうぞ。) 「愛の父から離れても、わたしは立派に生きていける。やっていける。自分が価値ある存在である…

聖書

神を知ることによってはじめて人生の意味と、世界の真理と歴史の意味を知ることができます。人生の目的も確かなものとされます。ではどのようにして神を知ることができるのでしょうか。聖書をとおしてです。聖書なしには神を知ることはできません。聖書はキ…

春のオープンチャーチ

https://rcjgifu-church.com/wp-content/uploads/2024/03/717dbe05223c37e9963363b1ac6563d8.pdf ふたたびのご案内です。ぜひ、おでかけください。

人生の目的

ウエストミンスター小教理問答の問1は「人生の主要な目的は何ですか」と問います。この問いを初めて目にされたある方が、わたしはもう何十年も生きてきたのに、人生の目的などということを考えたこともありませんでしたとおっしゃったのを、今も覚えていま…

筆跡

間をおいて届いた二葉の絵葉書 絵柄こそ異なれどそのたたずまいにはいささかの違和もない筆跡も文体も盛り込まれている思想もまさしく彼のもの その間に長い時間を要した大きな手術がはさまっているなどとはだれも思わないだろう 二枚の絵葉書を並べて眺めて…

平和を実現する人々は、幸いである(2)

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書5章9節) 平和を実現してくださったのは、イエス・キリストそのお方です。主イエスがこの世界のために、またわたしたちひとりひとりのためになしとげてくださったみ…

平和を実現する人々は、幸いである(1)

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書5章9節) 「平和」を、人々はどのようなものとして理解しているでしょうか。たとえば争いや対立がないこと、波風が立たないおだやかな状態を平和と見る見方があるか…

心の清い人々は、幸いである

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイによる福音書5章8節) 主イエスは言われます。「心の清い人々は、幸いである」。心の清い人とは心の汚れを修行や鍛錬によって追い払うことのできる人、世の汚れに身を染めることがない強い心を…

御子

御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。(ローマの信徒への手紙1章3~4節) 「御子は、肉によればダビデの子孫から生…

憐れみ深い人々は、幸いである

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。(マタイによる福音書5章7節) 「憐れむ」という言葉には同情するとか、不憫に思う、そういうニュアンスが含まれることがあります。憐れむとは困っている人に同情したり、具体的に助けたりする…

自己の相対化

宗教改革者のジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』の冒頭で、神を知ることと自分自身を知ることとはひとつのことであり、切り離すことができないと述べています。自分のことは自分がいちばんよく知っていると言う人がありますが、自分のことは案外わから…

本質的事柄

罪が支払う報酬は死です。(ローマの信徒への手紙6章23節) 聖書が語る生と死は、肉体の生と死、医学的生物学的な生と死とを超えた事柄、人間存在にとってまさしく本質的な事柄です。聖書をとおして、人間における生と死の意味を深いところで理解しなけれ…

的を射る

人生の目的はどこにあるのか。どのような命を生きるべきなのか。それをあやまたずにとらえること。大切なことです。 この世的な業績を上げること。この世で名を上げ、成功をおさめ、高い地位を得ること。そうしたことを人生の目的に据える人々は、少なくない…

義に飢え渇く人々は、幸いである

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。(マタイによる福音書5章6節) 義。正しさです。正義がきちんと通る場所は幸いである。そのような場所に生きる人々は幸いである。それは確かなことでしょう。しかし、地上には義が貫かれないとい…

そろそろ桜も終わりでしょうか。少し前までは、お花見でにぎわう各地(岐阜も、名古屋も)の様子が報じられていました。宴席がしつらえられ、盛り上がるという光景は、以前に比べると減っているのでしょうか。でも、今年も見られたかもしれません。 忘れられ…

柔和な人々は、幸いである

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。(マタイによる福音書5章5節) 聖書においては「柔和」という言葉は、ただたんにやさしさやおだやかさを意味するのではありません。聖書における「柔和」という言葉の根本的な意味は、したたかさ、ね…

ふと見ると洗面台に ひとすじひびが入っていた おそるおそる 手を伸ばし指を近づけると 白い陶器の冷たい感触ののちにそれはこころもち動いた 指でつまむことのできる亀裂だった 花冷えの朝かすかなこころのたじろぎも見えざる手の中にある

悲しむ人々は、幸いである

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。(マタイによる福音書5章4節) 悲しみは、この世にあっては不幸のしるしです。人々はできるなら悲しみから遠ざかりたいのです。悲しみと縁を切りたいのです。けれども主イエスは仰せになります―悲しむ…

心の貧しい人々は、幸いである

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5章3節) 心の貧しい人々は、幸いである。そう主イエスは言われます。豊かなことが幸いであるというのではない。貧しいことが幸いである。天の国ではこの世のものさし…

わたしはある

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。(出エジプト記3章14節) 聖書は、ただひとりの神が存在することを教…

人間の数量化

「二千の結核患者、炎熱の都議会に坐り込み 一人死亡」と 新聞は告げる(黒田三郎「引き裂かれたもの」 詩集『渇いた心』所収 角川書店『日本の詩集16 黒田三郎詩集』より) この作品の中の「一人」は幼い娘を持つ、貧しい、結核を病む母です。一週間後に…

豊かな所に

神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。あなたは我らを網に追い込み我らの腰に枷をはめ人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったがあなたは我らを導き出して豊かな所に置かれた。(詩編66編10~…

「聞く」ことと「行う」こと

昨日、大学時代からの友人が6年ぶりに訪ねてくれました。彼とは卒業に際して、コピー用紙にワープロ打ちした「二人詩集」を作りました。国語の先生としてよい働きを重ね、小学校、中学校で校長を務めた後、先月定年を迎え、今月から大学の特任教授の働きに…

ゼラチン

ケーキ作りのおもしろさに目覚めつつあります。上はゼリー、下はヨーグルトムースの、二層構造のケーキを作りました(ホールサイズで)。 今は、液体を目にするたびに、ゼラチンで固めたくなる誘惑にかられています。 少し余っているぶどうジュース。少し残…

忍耐

樹液は外から塗られる薬液でなく、樹木の内から浸み出す体液。だから、傷口は乾かない。かさぶたは形成されない。生傷は疼き続ける。ピンポイントで、秒針は打ち続ける。 かさぶたがいつまでも形成されない。その不安も、意志をもつ他者から与えられたもの。…

祝福を与えるために

以下はドイツの神学者D・ボンヘッファーが『共に生きる生活』(森野善右衛門訳、新教出版社、1975年)という書物の中で語っていることです(138頁以下の要約―本文を少し変えています)。 礼拝を共にし、教会生活を共にしていながら、自分の罪や弱さ…