見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

オープンチャーチ

オープンチャーチのお話の、一部だけ。ルカ15章11節以下、「放蕩した弟息子」の箇所です。(通してお聞きになるには、岐阜加納教会ホームページへどうぞ。)

「愛の父から離れても、わたしは立派に生きていける。やっていける。自分が価値ある存在であること。それは父に証明してもらうようなことではない。わたしは自分で自分の価値を証明してみせることができる。能力を発揮し、名をあげ、豊かな富を手に入れ、成功することができる。そうすれば、皆がわたしを愛してくれるだろう。重んじてくれるだろう。だから、努力して愛される人間にならなければならない。努力しなければ、だれも愛してくれない。弟息子はそう信じていたかもしれません。

けれどもどうであったのでしょうか。確かに初めは、皆が彼をちやほやしてくれました。それは、彼がお金を持っていたからです。父の財産を持っていたからです。自分がひとかどの者になるための、人々から、この世から尊敬され、愛される人間になるための当座の元手、資本として家から持ってきたお金があったからです。

しかしお金がなくなると、手のひらを返すようにして、誰もが彼を見捨て、彼のもとから離れていってしまったのです。彼は大きな思い違いをしていたのです。自分は皆に愛されている。自分は誰からも一目置かれる人間である。そうではありませんでした。人々は彼自身ではなく、彼の財産を当てにしていたのです。お金があるうちだけ、彼を利用しようとしていたのです。それは愛ではなかった。愛でないものを愛だと錯覚するのは悲しいことです。しかしこの世の中には、わたしたちのまわりには、そのような誤解の、錯覚の悲しみが満ちているのではないでしょうか。

現代は神なき時代と言われます。それは、現代はこの放蕩する弟息子の時代であるということでもあります。父の家を離れること。それはいわば人間の、人類の、神への挑戦です。ドイツの名高い哲学者が「神は死んだ」と語り、これからは神をもしのぐ天才的な人間、超人の時代であると語ってから、もうずいぶん時代がたちました。科学技術が進み、医学も進歩しました。豊かな国、豊かな世界になりました。しかし、世界は本当に幸せでしょうか。今神から離れて、愛の父の家を出て、今人は本当に平和で、幸せな世界を築いているでしょうか。技術や効率や便利さといったものだけで、人は魂を潤わせることが、命の手ごたえを得ることが、喜びに満たされることができるでしょうか。やはり愛がなければ、人は生きられないのではないでしょうか。」