見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

憐れみ深い人々は、幸いである

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
(マタイによる福音書5章7節)

「憐れむ」という言葉には同情するとか、不憫に思う、そういうニュアンスが含まれることがあります。憐れむとは困っている人に同情したり、具体的に助けたりすることだと考えられることがあります。そこでは隣人よりも自分が上に立って、上下関係が生まれるようなかたちになる場合もあるように思われます。

聖書においては憐れむとは愛することであり、愛するとは共にあることです。共にあること。それは寄り添うことでもあります。そして(ここに言われる)憐れみ深くあるとは、相手に寄り添う業をまっとうする、相手に添い遂げるということです。相手も自分も順調な時には共にあるけれども、共にあることに困難が生じたなら離れてしまうというのではなく、文字どおり添い遂げることです。
つまり主イエスの言われる憐れみ深い人々とは、どんなにむずかしいことがあろうと隣人を愛し続ける、隣人と共にあり続ける、そこにともなう重荷や労苦をも正面から担い続ける、そういう人々を言うのです。そのような人々は幸いであると主イエスは仰せになるのです。

それはむずかしいことのように思われます。しかし主イエスは、あなたがたも憐れみ深き人間になることができると言われます。なぜでしょうか。わたしたちも「憐れみを受け」たからです。
わたしたちが受けた憐れみ。それは神の憐れみです。いわゆる慈善事業、施しの業であれば、この世でも行われています。神なきところ、神について語られない場所でも行われています。けれどもここで主イエスがお語りになっているのは人間に対する神の愛、神の憐れみです。

では、人間に対する神の愛、神の憐れみとは何か。罪人を憐れむ憐れみです。罪人のために独り子を十字架につける、罪人の罪を贖うために独り子の命を犠牲のささげものとしてささげる愛です。
人は皆生まれながらに罪の支配のもとにあります。この一点において、すべての人は一列に並ぶのです。そのことが示すのは、人はだれもが神の憐れみを必要としているという事実です。人はひとり残らず、神の憐れみなしには生きていけない存在であるという事実です。現に、わたしたちは神の憐れみによって生かされています。神がわたしたちを憐れみ、御子キリストの十字架によってわたしたちを赦し、わたしたちを愛してくださるゆえに、わたしたちは今このようにして生きているのです。

人間が憐れみ深くある。そういうことが起こっているのだとすれば、それは神の憐れみを受け、これを隣人と共に分かち合って生きているということ、それ以外のことではありません。「憐れむ」という言葉のもともとの意味は、はらわたが痛む、内臓が激しく揺り動かされるという実に強い、激しい言葉です。神はわたしたち罪人のみじめな姿にはらわたを痛め、その憐れみにうながされて御子を十字架につけてくださったのです。わたしたちはこの神の愛、十字架の愛と赦しの恵みをいただいた。だからこそみずからも憐れみに生きることができるのです。

ここであらためて「受ける」という言葉の重さを思わずにはおれません。よく考えるなら、わたしたちは受けてばかりです。ある神学者は、キリストを信じる者は受ける力を磨き、鍛えるべきであると言っています。神の言葉を聞くとき、わたしたちの耳は受けるための道具です。聖餐の食卓においてキリストその御方を受ける時、わたしたちの五体はひたすら受けるための器です。受けること。そこにキリスト者の喜びと祝福があるのです。