見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

義に飢え渇く人々は、幸いである

義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
(マタイによる福音書5章6節)

義。正しさです。正義がきちんと通る場所は幸いである。そのような場所に生きる人々は幸いである。それは確かなことでしょう。
しかし、地上には義が貫かれないという現実があります。しばしば正義は曲げられ、不義がまかり通ります。義に生きようとすればするほど、不義が幅をきかせるこの世の厚い壁にぶつかります。その時、義に生きようとする者たちの切実な問いが生まれます。

正義が曲げられ、正しい者たちが不義なる者たちに苦しめられる。そうした現実を目にするとき、人は義憤にかられます。しかしよく考えたいのです。人の義は完全なものではありません。作家の三浦綾子さんは指摘しています―人は生まれながらに、自分のすることはいつも正しく、他人のすることはたいてい誤っているという二重のはかりを宿している。
それゆえ、人は自分を超えた義のはかりを、すなわち神の義のはかりを持たなければならないのです。

ここで主イエスが言われる「義に飢え渇く人々」とは、神の義に飢え渇く人々ということです。自分の義のはかりが生まれながらに曲がっていることを知るとき、わたしたちは神の義を求め、神の義に飢え渇きます。
さらに言えば、実は義に飢え渇くのは人間だけではありません。最も深く義に飢え渇いておられるのは神なのです。わたしたち人間は、生まれながらの罪によって神の義を損ねます。その現実に心を痛めておられるのは、神なのです。

にもかかわらず、主イエスは仰せになります。「義に飢え渇く人々は、幸いである」。わたしの義を捻じ曲げ、不義を重ねるあなたがた罪人はわざわいであるとは仰せにならないのです。
なぜでしょうか。義に生き抜くことができない、義なる神を悲しませることしかできないわたしたちを、そのようなみじめさから救い出すことのために、神は御手を伸ばしてくださったからです。そうした現実のただ中にみずから介入してくださったからです。
「義に飢え渇く者は幸いである」。なぜでしょうか。「その人たちは満たされる」からです。義を満たすのは人間自身ではありません。神が、義に飢え渇いている者たちを満たしてくださったのです。どのようにしてでしょうか。独り子を十字架につけることによってです。

主イエスは十字架の上で、「渇く」と仰せになりました(ヨハネによる福音書19章28節)。主イエスは十字架の上で、義に飢え渇くことのきわみを味わい尽くされたのです。わたしたちの不義、この世の不義の一切をその身に負われたのです。神はご自身の義に背くわたしたちの、その不義の身代わりとして、罪なき独り子を十字架の上に死なせられました。独り子の贖いの死によってわたしたちの罪を赦し、わたしたちを罪の支配から解放し、まことに義なる者としてくださるためにです。主イエスが十字架に死なれたことにより、わたしたちの飢え渇きは根本的なしかたで満たされたのです。