見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

悲しむ人々は、幸いである

悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
(マタイによる福音書5章4節)

悲しみは、この世にあっては不幸のしるしです。人々はできるなら悲しみから遠ざかりたいのです。悲しみと縁を切りたいのです。けれども主イエスは仰せになります―悲しむ人々は幸いである。
なぜ、悲しむ人々が幸いなのでしょうか。主イエスは答えられます。「その人たちは慰められる」。悲しむ人々が幸いであるのは、慰めを受けるからです。

ここでの悲しみは、人間の根本的な悲しみです。人間存在の奥底にある悲しみです。しばらくすれば忘れられてしまうような悲しみではない。痛みをもたらす悲しみがあります。
さらに、死をもたらす悲しみというものもあります。ここで考えてみたいのです。何が悲しみをもたらすのか。この世界と人間に悲しみをもたらすものとは何か。戦争が大きな悲しみと嘆きをもたらしています。つまり、人間の罪が悲しみをもたらします。尊い命が奪われることでもたらされる大きな悲しみ。それは、人間の罪によるものです。戦争の罪というと、国家や権力者たちのものと思うかもしれません。けれどもこのことは権力者たち、為政者たちだけの問題ではありません。なぜなら彼らも人間であり、わたしたちも人間である。彼らの中にあるものは、わたしたちの中にもあるのです。

人間存在における根本的な悲しみは、人間の罪の問題と結びついています。そして「悲しむ人々は、幸いである」、この主イエスの御言葉は、そのような人間の根本的な悲しみを知る人々に向けて語りかけられている御言葉なのです。ローマの信徒への手紙6章23節は、罪の支払う報酬は死であると語ります。人間の罪の結果もたらされる、死を味わうような悲しみと嘆き。そのような悲しみは、もはや人間自身の手には負えないのです。この世の何者であっても慰めることができないのです。
つまりそのような悲しみは、もはやそれを神のもとに持っていくほかはないのです。神の御手に託すほかはないのです。そのことを知っている、それゆえにその悲しみを神の御手に託そうとする、そういう人々こそ幸いな人々なのです。

「その人たちは慰められる」。その慰めはキリストから来る慰めです。キリストはわたしたち罪人のひとりとなられ、わたしたちの罪の現実のただ中に入って来られました。そしてわたしたちの死をその身に引き受け、十字架の上で尊き血潮を流されました。キリストの死は、わたしたちの罪の代価です。神はわたしたちを罪とその報いとしての死から救い出すために、愛する独り子を死なせられたのです。独り子を死なせるほどにわたしたちを愛してくださったこの神の愛ゆえに、わたしたちは罪と死の支配から解き放たれ、自由の身とされたのです。
それゆえハイデルベルク信仰問答の問1は言います―生きるにも死ぬにも、わたしのただ一つの慰めは、わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることである。ここに真実の慰めがあります。この慰めに生きる人々は幸いです。ある神学者は、慰めとは確かさであると語っています。慰め主なる神に足場を据える。そのことにより、わたしたちの人生は確かなものとされます。慰め主なる神のもとで、わたしたちはどのような悲しみの中でも平安を得るのです。

マルティン・ルターは、4節前半をこのように訳しています。「悲しみを担い続ける人々は、幸いである」。真実の慰めは、世から来るのではない。ただ主なる神のもとから来る。そのことを知り、主が必ずわたしたちを慰めてくださることを信じ、忍耐をもって今ある悲しみを大切に担う。
その時、悲しみは新しい意味を帯びるのです。神はわたしたちの祈りにこたえて、豊かな慰めをもたらしてくださいます。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。この主イエスの御言葉が、わたしたちのひとりひとりのうちに文字通り実現します。その時、悲しみもまた益となるのです。神をほめたたえるよすがとなるのです。