見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

赦しの恵み

わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てました。
わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました

「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを

赦してくださいました。
詩編32編3~5節)

3節以下で、詩人は魂の深いところでの葛藤を吐露しています。彼は自分の内に宿る罪を隠し、あたかも自分が罪なき者であるかのようにふるまおうとしたのです。しかし、罪の重荷が彼を苦しめます。長く自分の罪を隠し続けているうちに、彼は絶え間なくうめき、骨(生ける人間存在そのもの、とりわけその中心の部分)まで朽ち果て、夏の日照りに灼かれたように衰え果て、着古した着物のようになったのです。

自分を偽る時、このような苦しみが人に覆いかぶさるのは当然のことです。人は霊的存在です。人格をもっています。そして、良心をそなえています。自分の罪に無感覚になりきることはできません。良心を麻痺させることはできません。
自分の罪を封じ込めようとする時、そこに深刻な葛藤が生じるのです。人は、造り主である神を欺くことはできないのです。神は人の真相をきわみまで知り抜いておられます。神の前では、あらゆる仮面は役に立たないのです。

使徒パウロは「罪が支払う報酬は死です」(ローマの信徒への手紙6章23節)と語ります。罪が人に死をもたらすというのは本当のことです。つまり、人が救われるとは罪が赦されることです。神ならぬ神々にとらわれているうちは、人は自分の願いがかなえられるのか、自分にどんな利益がもたらされるのか、あるいは目の前の逆境からどのように逃れることができるのか、そうしたことにしか関心を示さないでしょう。しかし、そうしたことは人の生き死に、救いの根本問題とは関係がありません。

人の救いとは、罪の赦しです。そして、神は人の罪を赦すことのできる方です。罪の赦しの道、救いと命に至る道を、神は開いてくださいました。神は詩人に、内なる罪を告白する思いを与えられます。「わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。/そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました」(6節)
イエス・キリストの十字架の贖いの御業により、神は人の罪を赦してくださいます。キリストにあって、人は罪の重荷から解き放たれ、真の自由と解放を得るのです。そこに新しい人、もはや罪にも死にも支配されない新しい人が誕生するのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリントの信徒への手紙二5章17節)。これは神からの、恵みの贈り物です。「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマの信徒への手紙6章23節)

罪赦され、自由の喜びを得た詩人は心から神をたたえずにはおれません。「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」(1節)。
自分の罪のうちに封じ込められていた時、彼は不幸でした。しかし神と共にある、神の命に生かされている今は幸いのきわみ、至福の中にあるとうたうのです。