見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

福音―神の義

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙1章17節) 人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされます。…

福音―神の力

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。(ローマの信徒への手紙1章16節) 使徒パウロは、わたしは福音を恥としないと言います。なぜパウロはわざわざこのような言いかた…

神(4)

昔から多くの人々が(よく知られた哲学者たちも含めて)神が存在することを証明しようとしてきました。世界は運動をしており、その世界の動きのおおもと、第一原因、第一動力ともいうべきものが神であるとか、物事に結果と原因とがあり、その因果の法則を操…

義のために迫害される人々は、幸いである(2)

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5章10節) 迫害を受けることがなぜ喜びなのでしょうか。第二に、天における報いが大きいからです。キリスト者はこの世のことだけをはかりとして生きるので…

義のために迫害される人々は、幸いである(1)

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5章10節) 主イエスが「迫害される人々は」と仰せになっているので、この問題も考えなければなりません。なぜ教会とキリスト者は迫害に遭うのでしょうか。…

いつもの仕事

幾日かに一度ごみ収集車が町内を巡る朝 軒をつらねる家々から幾人かの老人たちが出てきていつもの仕事をこなす日々 暮らしていくために大切な仕事 黄色いネットをごみで膨らんだビニール袋にかぶせコンクリートブロックを四隅に置くごみをからすに荒らされぬ…

神(3)

近代のヨーロッパでも無神論が唱えられました。神学生の時に授業で、あるドイツの哲学者について学んだことがあります。神とは人間が生み出したものにすぎないという主張を展開した人です。かいつまんで紹介すればこうです―人間のうちには幸福を求める自己愛…

神(2)

聖書は「ただひとりの」「生けるまことの神」(ウェストミンスター小教理問答問5)を証しする書物です。キリスト者にとっては神の存在は当然のことですが、いわゆる無神論者と呼ばれる人々もあります。日本の国にも、またわたしたちの周囲にも、神などない…

神(1)

神とはどのような方か。答えるのがなかなかむずかしい問いかもしれません。神はわたしたち人間を超えておられるからです。しかし永遠者、超越者であられる神を、人間の限られた言葉をもってある程度は言いあらわすことができるでしょう。 ウエストミンスター…

主の庭を慕う

万軍の主よ、あなたのいますところはどれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作りつばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、…

変化(2)

昨日のブログを読まれた方から、十字に切るのでは足りない、その作業を二度繰り返さねばならないとのご指摘をいただきました。がんばります。

聖書の読み方

「D・ボンヘッファーは、聖書をどのように読むべきかについて大切な示唆を与えてくれています。それは、聖書を読むことによって聖書とわたしたちの生活との間に「逆転」が起こるのだということです。たとえば聖書を人生訓、道徳訓、あるいは教養の書と見な…

変化

時に、生活の変化を求めたくなるものです。 今朝は、いつもはしないことをしました。朝食のウインナーの中ほどの部分から、包丁で十字のかたちに、ふたつ切り込みを入れてから焼きました。

オープンチャーチ

オープンチャーチのお話の、一部だけ。ルカ15章11節以下、「放蕩した弟息子」の箇所です。(通してお聞きになるには、岐阜加納教会ホームページへどうぞ。) 「愛の父から離れても、わたしは立派に生きていける。やっていける。自分が価値ある存在である…

聖書

神を知ることによってはじめて人生の意味と、世界の真理と歴史の意味を知ることができます。人生の目的も確かなものとされます。ではどのようにして神を知ることができるのでしょうか。聖書をとおしてです。聖書なしには神を知ることはできません。聖書はキ…

春のオープンチャーチ

https://rcjgifu-church.com/wp-content/uploads/2024/03/717dbe05223c37e9963363b1ac6563d8.pdf ふたたびのご案内です。ぜひ、おでかけください。

人生の目的

ウエストミンスター小教理問答の問1は「人生の主要な目的は何ですか」と問います。この問いを初めて目にされたある方が、わたしはもう何十年も生きてきたのに、人生の目的などということを考えたこともありませんでしたとおっしゃったのを、今も覚えていま…

筆跡

間をおいて届いた二葉の絵葉書 絵柄こそ異なれどそのたたずまいにはいささかの違和もない筆跡も文体も盛り込まれている思想もまさしく彼のもの その間に長い時間を要した大きな手術がはさまっているなどとはだれも思わないだろう 二枚の絵葉書を並べて眺めて…

平和を実現する人々は、幸いである(2)

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書5章9節) 平和を実現してくださったのは、イエス・キリストそのお方です。主イエスがこの世界のために、またわたしたちひとりひとりのためになしとげてくださったみ…

平和を実現する人々は、幸いである(1)

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書5章9節) 「平和」を、人々はどのようなものとして理解しているでしょうか。たとえば争いや対立がないこと、波風が立たないおだやかな状態を平和と見る見方があるか…

心の清い人々は、幸いである

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイによる福音書5章8節) 主イエスは言われます。「心の清い人々は、幸いである」。心の清い人とは心の汚れを修行や鍛錬によって追い払うことのできる人、世の汚れに身を染めることがない強い心を…

御子

御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。(ローマの信徒への手紙1章3~4節) 「御子は、肉によればダビデの子孫から生…

憐れみ深い人々は、幸いである

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。(マタイによる福音書5章7節) 「憐れむ」という言葉には同情するとか、不憫に思う、そういうニュアンスが含まれることがあります。憐れむとは困っている人に同情したり、具体的に助けたりする…

自己の相対化

宗教改革者のジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』の冒頭で、神を知ることと自分自身を知ることとはひとつのことであり、切り離すことができないと述べています。自分のことは自分がいちばんよく知っていると言う人がありますが、自分のことは案外わから…

本質的事柄

罪が支払う報酬は死です。(ローマの信徒への手紙6章23節) 聖書が語る生と死は、肉体の生と死、医学的生物学的な生と死とを超えた事柄、人間存在にとってまさしく本質的な事柄です。聖書をとおして、人間における生と死の意味を深いところで理解しなけれ…

的を射る

人生の目的はどこにあるのか。どのような命を生きるべきなのか。それをあやまたずにとらえること。大切なことです。 この世的な業績を上げること。この世で名を上げ、成功をおさめ、高い地位を得ること。そうしたことを人生の目的に据える人々は、少なくない…

義に飢え渇く人々は、幸いである

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。(マタイによる福音書5章6節) 義。正しさです。正義がきちんと通る場所は幸いである。そのような場所に生きる人々は幸いである。それは確かなことでしょう。しかし、地上には義が貫かれないとい…

そろそろ桜も終わりでしょうか。少し前までは、お花見でにぎわう各地(岐阜も、名古屋も)の様子が報じられていました。宴席がしつらえられ、盛り上がるという光景は、以前に比べると減っているのでしょうか。でも、今年も見られたかもしれません。 忘れられ…

柔和な人々は、幸いである

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。(マタイによる福音書5章5節) 聖書においては「柔和」という言葉は、ただたんにやさしさやおだやかさを意味するのではありません。聖書における「柔和」という言葉の根本的な意味は、したたかさ、ね…

ふと見ると洗面台に ひとすじひびが入っていた おそるおそる 手を伸ばし指を近づけると 白い陶器の冷たい感触ののちにそれはこころもち動いた 指でつまむことのできる亀裂だった 花冷えの朝かすかなこころのたじろぎも見えざる手の中にある