見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

義のために迫害される人々は、幸いである(1)

義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
(マタイによる福音書5章10節)

主イエスが「迫害される人々は」と仰せになっているので、この問題も考えなければなりません。
なぜ教会とキリスト者は迫害に遭うのでしょうか。それは、この世がなお罪と不義の中にあるからです。そうした現実の中で正義を貫こうとすれば、世はそうした者たちを憎み、消し去ろうとします。不義の世は神の義を憎み、神の義を生きようとする者たちを憎む。そうした中で、光につく者たちが世の闇の力に苦しめられるということが起こるのです。
10節に「義のために」とありますが、これはこの世的な義のためにということではなく神の義、この世の義を超えた神の義のためにということです。

さらに11節には「わたしのためにののしられ」とあります。わたしのために、すなわち主イエスのためにということです。主イエスの弟子となったばかりにののしられ、迫害され、悪口を浴びせられるということがあるのです。
主イエスは義そのものである方です。それゆえ主イエスのおられるところ、隠されていたこの世の不義があぶり出されるということも起こります。だからこそ世が主イエスに従う者たちをも、この世の者たち以上に嫌い、ねたみ、苦しめるということが起こり得るのです。
何よりも、今このように語っておられる主イエスご自身の地上の生涯が、主の弟子たちのだれよりも迫害を受け、ののしられ、悪口を浴びせられた生涯であったのです。そして、その最後には十字架が待ち受けていたのです。そのように主イエスが十字架への道を歩まれた以上、主イエスの弟子たちも十字架を背負うのです。彼らが世から迫害をこうむることは、怪しむべきことではないのです。

主イエスはここで驚くべきことを仰せになっています。あなたがたは迫害を受けることをわざわいだと思うのか。そうではない。幸いである迫害を受けたなら、大いに喜べ。躍り上がって喜べ。
迫害を受けることがなぜ喜びなのでしょうか。第一に、そのことはキリスト者であることの証しだからです。主イエスにならって、十字架の道に従っていることの証しだからです。主イエスは闇の世を照らす光として来られました。この方は真理であり、命であられます。すなわち主イエスが来られたということは、真理とそうでないものとがはっきり区別されることになった、光と闇とがはっきりと分けられることになったということを意味するのです。
主イエスを信じ、主イエスに従う者たちは、そこで真理の側に、光の側に立つことを表明している者たちです。真理に立つゆえに、まことの義に立つゆえに、当然世から憎まれ、うとまれるということが起こる。迫害を受けることは、自分たちが真理の側についていることの証しです。だからこそ彼らは喜ぶのです。喜び踊るのです。

迫害を受けるというと、何か特別な状況を考えがちになるかもしれません。教会の歴史の中には、主イエスを信じることがそのまま命の危険を意味するような深刻な時代もありました。今わたしたちが生きている時代は、ともかく信仰の自由は保証されている時代です。比較的おだやかに信仰生活を送ることができます。
しかし、それでもわたしたちは何らかのしかたで信仰のたたかいをなしているのではないでしょうか。どの時代であっても、主イエスを信じて生きるというときにこの世との摩擦やたたかいをいっさい経験しなくてもよいということはあり得ません。職場で、家庭で、地域社会で、何らかのたたかいを担うということがわたしたちのだれにもあるのだと思います。
主イエスは、御自分を信じる者たちのそのような日々の、地道な誠実なたたかいをも確かに見ていてくださいます。そうしたいとなみをも守り支え、励ましてくださいます。そして仰せになります。どんなに小さなことでも、わたしのために迫害され、ののしられ、悪口を浴びせられるなら、あなたがたは幸いである。喜びなさい。喜び踊りなさい。