見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

人間

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。…」
(創世記1章26節)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
(同2章7節)

人間の創造は、他の造られたものとはあきらかに異なっていました。それゆえ、人間は「創造の冠」と呼ばれます。神のよき創造における、よきものの極みとして、人間は造られたのです。

人間は神にかたどり、神に似せて造られました。それは霊をもつ者(体をももつという点では、神と異なるのですが)として、また「存在、知恵、力、聖、義、いつくしみ、まこと」(ウェストミンスター小教理問答問4)において神の姿を映し出す者として造られたということです。

造られた者であるのに、永遠の神との交わりをもつことができる(何と、めざましい事実)。
それは、神が人間をそのような存在―御自身の似像として造られたからです。人間とは、何よりも神との霊的、人格的交わりに生きる者、神を礼拝し、賛美して生きる者です。

そこに「我―汝」の二人称の関係が成り立ちます。神と人間とは、愛の交わりに生きるのです。創造は、とりわけ人間の創造は、神の愛によるみわざなのです。

ご自身とのそのような交わりを、神はただ人間にだけお許しになりました。まさしくこの点において、人間は他のすべての造られたものと区別されます。ある方は、人間を楽器―神を賛美する笛になぞらえておられます。