見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

主の庭を慕う

万軍の主よ、あなたのいますところは
どれほど愛されていることでしょう。
主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。
命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り
つばめは巣をかけて、雛を置いています。
万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
いかに幸いなことでしょう
あなたの家に住むことができるなら
まして、あなたを賛美することができるなら。
詩編84編2~5節)

詩人は神を深く愛する人です。そして、都エルサレム(「シオン」とも)を目指す巡礼の列につらなるひとりです。エルサレムには地上における神の住まいである神殿があります。旧約聖書の時代の信仰者たちは、お祭りのたびに神に会いに行ったのです。

エルサレムに向かう道すがら、詩人の思いはたかまります。神にまみえることこそ、彼にとって最大の喜びであり、幸いであるからです。
彼は「主の庭を慕」います。彼は祭司ではないので、聖所に入ることはできません。神殿の前庭に入ることができるだけです。それでじゅうぶんなのです。そこに身を置くだけで、彼は満ち足りるのです。「魂」が「絶え入」るほどの幸福感に満たされるのです。
全身全霊をもって、彼は主の御名を呼びます。生ける神、命の神とのこれほど濃密な交わりに生きることができる。御自身のかたちに似せて造られた被造物である人間に、神が与えてくださる大いなる恵みです。

「いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。/嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。/雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」(6~7節)
エルサレムにたどり着くまでの間に、巡礼者はさまざまな場所を通り、さまざまなものを目にしたことでしょう。「嘆きの谷」は、巡礼の道すがらの荒れ果てた谷です。そのような場所を通らなければ、神に会うことはできません。天の本国に迎え入れられるまでに、地上でしばしば試練に遭わなければならないわたしたちの人生の旅路にも似ています。
しかし、神が共にいてくださいます。旅路にともなってくださいます。それゆえ嘆きの谷も泉の湧くところとなるのです。神のおられるところ、どのような場所であっても恵みの雨が降り注ぐのです。詩人はそのことを知っているゆえに、どのような局面にあっても「勇気を出し」、霊のまなざしを開いて「広い道を見」、「いよいよ力を増して進」(8節)むのです。

「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです」(11節)。神にお会いするためにエルサレムまでおもむかなければならないことは、旧約聖書の時代の限界でした。しかしイエス・キリストにより、この限界は突き破られました。主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネによる福音書2章19~20節)と言われました。この神殿とは「御自分の体のことだった(同21節)のです。主イエスが三日目に復活され、約束の聖霊が世に来られた時、「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(同4章21節)との御言葉が実現したのです。
死に勝利し、死の支配を打ち破って甦られた主の霊が地上にくだりたもう。世界中のどこであっても、二人または三人が主の名によって集まる者たちがあるなら、主はそこに臨在したもう。彼らの心に、主は住みたもう。もはやエルサレムの神殿はいらなくなるのです。霊と真理とをもって主をあがめる礼拝のただ中に「千日にまさる恵み」が降り注ぐのです。