見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

平和を実現する人々は、幸いである(2)

平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイによる福音書5章9節)

平和を実現してくださったのは、イエス・キリストそのお方です。主イエスがこの世界のために、またわたしたちひとりひとりのためになしとげてくださったみわざこそ、わたしたちが平和を実現する者となることができることの根拠であり、土台です。

そのみわざとは、罪の赦しのみわざです。平和を実現しようとするときに、それを妨げるものは人間の罪です。最も根本的には、罪とは神に背くことです。わたしたちは神なしでもやっていける。自分の足で立ち、自分自身の力と知恵で立っていける。この世界を自分たちの思うままの世界につくり上げることができる。そのように考えて、愛と義の神から離れる。
そのとき、人は愛とは何かがわからなくなります。正義とは何かがわからなくなります。平和の喜びも忘れ去ってしまいます。

神のもとを離れることで、人は世界と人間に平和と幸いをもたらす神の義を、自分自身の曲がった義と取り換えてしまうのです。そしてめいめいが自分勝手にふるまうようになる。自分の正義を振り回すようになる。聖書によれば、神のもとを離れ去ること、神との平和を失ってしまうこと、それが戦争を含むこの世のあらゆる争いと憎しみと対立の根にあることなのです。
そうであるとすれば、平和を実現する者となるためには(人間同士の平和に先立つものとして)神との平和が必要です。神と和解し、神のもとにたちかえり、神との平和を回復することが必要です。

主イエスはわたしたちのために、このことを成し遂げてくださいました。平和を実現することがいかに困難なことか。そのことを最も深く知り抜いておられたのは主イエスです。この方は平和の王として世に来られました。ろばの子に乗ってエルサレムに凱旋されました。この方こそ、平和そのものであられました。
しかしその方が、最後には死ななければならなかったのです。十字架につけられて死ななければならなかったのです。この世界において愛と正義をつらぬくことがいかにむずかしいことであるのか。そのことが最も深く示されているのは、十字架のキリストにおいてなのです。

神と人との隔ての壁となっていた人の罪を、主イエスは取り除けてくださいました。ご自身が十字架に死なれることによってです。わたしたちの憎しみや争い、苦しみやわざわいの根元にあった罪、わたしたちのうちに生まれながらに根を張っていた罪が、十字架の贖いの恵みによりかれました。
こうして、神と人との和解が成し遂げられた。このことによって、わたしたちの身の上に根本的な変化がもたらされたのです。神と敵対していた者が、神との平和を得たのです。わたしたちは「神の子と呼ばれる」者とされたのです。

神との和解。神との平和。このことが土台にあるからこそ、今わたしたちは人と人との間にも平和を実現する力を持つ者とされているのです。
十字架の主イエスこそ、平和の砦です。