見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

神(3)

近代のヨーロッパでも無神論が唱えられました。神学生の時に授業で、あるドイツの哲学者について学んだことがあります。神とは人間が生み出したものにすぎないという主張を展開した人です。かいつまんで紹介すればこうです―人間のうちには幸福を求める自己愛、幸福を追求する願望が生まれながらに存在している。実はこれが神の正体である。つまり神とは人間の欲求や願望の投影である。

なぜ人間は神を作り出したのか。それはこの生まれつきの幸福への望みが、現実にはこの地上ではなかなかかなえられないからである。つまり、社会の仕組みや制度がこれを阻害する。この世は決してユートピアではない。権力を持つ者が貧しい者や弱い者を抑圧する。そうすると、人は幸福を願いつつも、幸福を手に入れることはできない。幸福を求める願いも内に秘めるほかはない。自分の中でおしとどめておくほかはない。そしてその抑圧された、抑えつけられた心の中の幸福追求の願いは、だんだん大きくなってくる。それが、ちょうどオーバーヘッドプロジェクターという文字や絵を大きくしてスクリーンに映し出す、投影する機械のように大きな存在となる。それが神である。

要するに、神は肥大した人間の願望の投影にすぎないというのです。それゆえ、神などもともとない。では、神がないことはどのようにして証明されるのか。社会が変革されることによってです。つまり社会そのものがよくなって、人間が自分の願いを実現できるようになれば、自然に神は消えていくということです。

この考え方(「投影理論」と呼ばれます)を共産主義無神論者たちも受け継ぎますが、宗教はアヘンだと語られました。つまりこの世にあって民衆は権力や資本を持つ人々によって搾取され、抑圧されている。人民は、その苦しみから逃れたいと願う。それで、その苦しみを麻薬のようにやわらげてくれる存在として神を作り出し、そこに逃げ込む。しかし革命が起こって本当に平等な、理想の社会が実現すれば、おのずから宗教も神も必要なくなるというのです。

こうした主張は、ある面では当たっています。つまり、人間は偶像の神々を作り出すのです。けれども聖書から見ても、それらは偽りの神です。あらためて覚えたいことは、神はただ聖書を通してのみご自身を啓示されるということです。わたしたちは神を知ることができます。神と出会うことができます。しかし、その道はただひとつです。すなわち聖書を、また聖書の証しするイエス・キリストというお方を通して神を知り、神と出会い、神とはどのような方かという問いに対して正しい答えを得るのだということです。

このときの授業をしめくくるようにして、教授は言われました―この無神論に対抗して、われわれはこう反論することができる。聖書に啓示されているイエス・キリストは十字架に死に、三日目に復活された。果たして人間は、このような神を作り出すことができるのか。確かに人間は神を殺すことができる。しかし人間を罪から救うために死に、人間に命を与えるために死のただ中から甦りたもうような神を作り出すことができるのか。できないはずである。