見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

アダムとキリスト(6)

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
(ローマの信徒への手紙5章18節)

神は第二のアダム―イエス・キリストをこの世界に遣わされました。闇を光に変え、死を命に変えるために、神の独り子が第二のアダムとして来たりたもうたのです。このことによって、世界の歴史とそこに生きる人間のありようがまさしく覆されたのです。

ふたりのアダムの共通点は、ともにその子孫に影響力を持ち、支配力をふるったというところにあります。第一のアダムは、彼のすべての子孫を罪ゆえに死なせることとなりました。しかし、第二のアダムの命と恵みによる支配も、そのすべての子孫に及ぶこととなりました。
そして、恵みの賜物は罪とは比較になりません(15)。第二のアダムの支配は、第一のアダムのそれとは比べものにならないほどに偉大なのです。第一のアダムは、第二のアダムに呑み込まれたのです。わたしたちのひとりひとりも、この世界も、もはや第一のアダムのもとにはないのです。今や世界の主はアダムではなくキリストであり、わたしたちの主もアダムではなくキリストです。
第二のアダム-キリストは、第一のアダムを罪と死の中に投げ込んだサタンの支配とたたかい、これを打ち破られました。このサタンに対する完全な勝利によって、すべてのアダムのすえを罪と死の縄目から解き放たれました。今や世界は、またわたしたちも、アダムからキリストへと移されています。死から命へと移されています。今なお古いアダムの残滓はわたしたちの中に残り続けていますが、すでにその支配力は決定的に奪われているのです。

第二のアダムの勝利は、世界全体、人類全体の歴史的転換です。第二のアダムによりもたらされたことは、この世界のさだめが覆り、死が死ではなくなり、絶望が希望に変わり、これまで世界と人間とを縛りつけていたあらゆる限界が取り払われる、そういう出来事であったのです。イエス・キリストとはそのようなことをなしたもうた方であり、イエス・キリストが救い主であるとはそのような意味なのです。第二のアダムによってこのわたしの人生が変えられたのみならず、世界のさだめも覆ったのです。
明治以来の日本のプロテスタント教会の信仰の特徴としてよく指摘されることは、信仰が個人的な領域にとどまってしまう傾向があるということです。神がわたしの生活の、わたしの家庭の、あるいはわたしたちの教会の神にとどまってしまうということです。しかし、神は大いなる方です。わたしたちは神を、わたしたちの手で小さな方にしてしまうべきではないのです。

聖書を通して、わたしたちは神がわたしの神でありたもうと同時に、世界と人類の主なる神でありたもうことを知ります。信仰とは神をわたしの手の中に置くということではありません。神の救いの歴史の中にわたしが引き込まれ、組み込まれることです。
そうであれば、信仰が個人的なものにとどまっているはずはないでしょう。わたしたちにとって大切なことは、天地創造から世の終わりの新天新地に至る、旧約の創世記から新約の黙示録に至る救いの全歴史をわきまえたうえで御言葉に聴き、救いの真理を把握し、教会や時代や世界の問題を考え抜いていく姿勢を養うことであると思います。そのような信仰の視野をきちんと据えていくために、アダムからキリストへの消息を鮮やかに語り示す5章12節以下は実に重要な箇所なのです。