見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

アダムとキリスト(4)

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
(ローマの信徒への手紙5章15節)

最初に創造された人間、全人類の代表、典型的人間、まさに人間そのものであるアダムから、罪と死は人類に入った。そのようにまことに鮮やかに、パウロは罪の起源を語ります。聖書によれば、罪と死とは表裏一体の関係にあります。死は罪の結果です(6:23)。
しかしパウロはもうひとりのアダム―イエス・キリストについても語ります。この第二のアダムが、ちょうど非常口の扉の前で待ち受ける救助隊員のようにして、わたしたちを罪と死とから救い出してくださったのだとパウロは言うのです。 

わたしたちは第一のアダムのさだめを背中に背負って生きています。そのようなわたしたちにとって、死は危機であり、最後の敵であり、わたしたちの命を妨げる隔ての厚い壁、出口なき袋小路です。
しかし第二のアダムの到来によって、死はその意味を大きく転換させられたのです。まさにキリストにあって、死は人間の分岐点、百八十度の転換点となったのです。危機から救いへの、滅びから命への転換点です。
罪と死からの救出は、ただひたすらなる神の愛と恵みによってなされました。ここでパウロは何度も「恵み」「賜物」という言葉を繰り返しています。それには深い意味があります。みずからの救いに関して、わたしたちは指一本触れなかったのです。わたしたちはまさしく救助されたのです。
そして、救助隊員が人命救助の際に命を落とすことがあるように、キリストはご自身の命とひきかえに、わたしたちを救い出してくださったのです。

アダムを通して全世界を覆うこととなった罪と死の法則を破綻させるためには、第二のアダムが聖霊によってマリアから生まれ、罪人のひとりに数えられ、苦しめられ、あざけられ、そして死ななければなりませんでした。第一のアダムのすえとして生まれたすべての人間の死を、ご自身の死と引き換えにしなければなりませんでした。それゆえ、神は御子キリストを第二のアダムとしてわたしたちのもとに来たらせ、死なせられたのです。
ここに神の愛があります。神は愛であられるので、わたしたちがもはや罪に苦しむことがないように、死の恐れに呑み込まれることがないように、御子を死なせ、甦らせられたのです。それゆえ「今から後、主に結ばれて死ぬ死人は幸いである」(黙示録14:13)。それゆえ「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)。

パウロはふたりの人-最初のアダムと第二のアダム-イエス・キリストとを並べて論じています。しかし、ふたりのアダムは決して同じ重さで立っているのではありません。わたしたちはここで、両方の皿に同じ重さの分銅を乗せて釣り合っている天秤をイメージすべきではありません。この天秤はあきらかに不均衡です。釣り合いを失っているのです。
つまり「恵みの賜物は、罪とは比較になりません」(15)。第一のアダムにある死の支配と、第二のアダムにある命の支配とは、比較にならないのです。恵みの力が、神の赦しと命の力が、罪と死の力をはるかに凌駕するのです。命が死を圧倒するのです。