見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

アダムとキリスト(7)

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
(ローマの信徒への手紙5章20~21節)

20節でパウロは言います。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」。この言いかたは矛盾しているのではないでしょうか。人の罪が増し加わるところでは、神の怒りと呪いこそが増し加わるのではないでしょうか。それが神の義というものではないでしょうか。
しかし、人の罪が増したところには神の恵みが満ちあふれたのです。神は人の罪に対して、怒りや呪いをもってお臨みにはならなかったのです。実に、あふれんばかりの恵みをもってお臨みになったのです。
ここに神の愛があります。この愛によって世界は、わたしたちは救われたのです。

神はかつて旧約の選びの民イスラエルを、ご自身への不従順の罪ゆえに滅ぼし、捕囚の苦難をお与えになりました。しかし審判の時が満ちると神はイスラエルを赦し、預言者イザヤの口を通してこう仰せになりました。「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする」(イザヤ43:25)
ほかの理由はありません。イスラエルが自分で罪の贖いをなしたとか、そういうことではありません。わたしは全能の神であり、愛の神であるがゆえに、いつまでも人の罪に対する憤りをあらわし続けることをしない。わたしは人の罪を贖い、赦すことができるゆえに、わたし自身の自由をもってもはやイスラエルの罪を思い起こすことをしない―この御言葉は、第二のアダムの裂かれた体と流された血潮とによって文字通り成就したのです。  

この世界を支配しておられるのは主なる神です。わたしたちの命と人生を支配しておられるのもこの方です。そして神は、この世界の歴史とわたしたちの人生においてまことにくすしい、驚くべき計画を持っておられました。そしてその計画を第二のアダム、ご自分のひとり子イエス・キリストを通して実現されました。一人のアダムを通して、罪と死の悲惨がこの世界に入った。一人の人の不従順によって、全人類が不従順のもとに置かれた。しかし、それは実に全人類が神の恵みを知るためであったのです。独り子を十字架につける神の愛と憐れみを、すべてのアダムの子孫が知るためであったのです。すべて御子を信じる者が神の恵みと命の支配のもとで、神に従順な僕として生まれ変わるためであったのです。
神は第二のアダムを通してわたしたちに罪の赦しと永遠の命の恵みを豊かに注いでくださいました。そしてわたしたちを第二のアダムにあって生きる新しい、祝福された人間に生まれ変わらせてくださいました。そのことを知るとき、わたしたちもパウロとともに、ああ神の富と知恵と知識の何と深いことか、だれが神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう(11:33)と叫ばざるを得ないのです。