見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

マタイによる福音書を読む

世の光

あなたがたは世の光である。(マタイによる福音書5章14節) 主イエスはご自分を信じて生きる人々に、あなたがたは世の光であると仰せになります。しかし知っておくべきことは、それ以前のこととして主イエスご自身が世の光であるということです。「イエス…

地の塩

あなたがたは地の塩である。(マタイによる福音書5章13節) 塩は調味料であり、防腐剤です。言うまでもなく人間の生活、日々の生活に欠かせないもの、貴重なものです。ただ、一方で塩は目立たないもの、見栄えのしないものです。さらに言えば、塩は隠され…

義のために迫害される人々は、幸いである(2)

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5章10節) 迫害を受けることがなぜ喜びなのでしょうか。第二に、天における報いが大きいからです。キリスト者はこの世のことだけをはかりとして生きるので…

義のために迫害される人々は、幸いである(1)

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5章10節) 主イエスが「迫害される人々は」と仰せになっているので、この問題も考えなければなりません。なぜ教会とキリスト者は迫害に遭うのでしょうか。…

平和を実現する人々は、幸いである(2)

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書5章9節) 平和を実現してくださったのは、イエス・キリストそのお方です。主イエスがこの世界のために、またわたしたちひとりひとりのためになしとげてくださったみ…

平和を実現する人々は、幸いである(1)

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書5章9節) 「平和」を、人々はどのようなものとして理解しているでしょうか。たとえば争いや対立がないこと、波風が立たないおだやかな状態を平和と見る見方があるか…

心の清い人々は、幸いである

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイによる福音書5章8節) 主イエスは言われます。「心の清い人々は、幸いである」。心の清い人とは心の汚れを修行や鍛錬によって追い払うことのできる人、世の汚れに身を染めることがない強い心を…

憐れみ深い人々は、幸いである

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。(マタイによる福音書5章7節) 「憐れむ」という言葉には同情するとか、不憫に思う、そういうニュアンスが含まれることがあります。憐れむとは困っている人に同情したり、具体的に助けたりする…

義に飢え渇く人々は、幸いである

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。(マタイによる福音書5章6節) 義。正しさです。正義がきちんと通る場所は幸いである。そのような場所に生きる人々は幸いである。それは確かなことでしょう。しかし、地上には義が貫かれないとい…

柔和な人々は、幸いである

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。(マタイによる福音書5章5節) 聖書においては「柔和」という言葉は、ただたんにやさしさやおだやかさを意味するのではありません。聖書における「柔和」という言葉の根本的な意味は、したたかさ、ね…

悲しむ人々は、幸いである

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。(マタイによる福音書5章4節) 悲しみは、この世にあっては不幸のしるしです。人々はできるなら悲しみから遠ざかりたいのです。悲しみと縁を切りたいのです。けれども主イエスは仰せになります―悲しむ…

心の貧しい人々は、幸いである

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5章3節) 心の貧しい人々は、幸いである。そう主イエスは言われます。豊かなことが幸いであるというのではない。貧しいことが幸いである。天の国ではこの世のものさし…