見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

心の貧しい人々は、幸いである

心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
(マタイによる福音書5章3節)

心の貧しい人々は、幸いである。そう主イエスは言われます。豊かなことが幸いであるというのではない。貧しいことが幸いである。天の国ではこの世のものさし、この世の常識はひっくり返されるのです。

心が貧しい。どういう意味でしょうか。「霊において貧しい」と訳している聖書の翻訳があることが参考になります。つまり、これは神の前での貧しさを言っているのです。霊的な御方である神の前で、霊を持つ者として造られた人間のすがたが問われている。心が貧しいというと、何か道徳的な問題かと思ってしまうところがありますが、そうではありません。これは造り主なる神の前での、被造物である人間のありかたの問題です。

「貧しい」とは、ここでは空である、空虚であるという意味です。貧しいけれども少しは持っているということではない。何ひとつ持っていない。徹底した貧しさ、徹底した無力です。この貧しさは、ぎりぎり自分でも生活をいとなむことができるというような貧しさではありません。物乞いをしなければ生きていかれない。宗教改革者のルターは死ぬ直前に、わたしは物乞いだ、それは本当のことだと語ったそうですが、ともかくそういう種類の貧しさです。
そういう貧しさに生きる者こそが幸いである、天の国は彼らのものであると主イエスは仰せになるのです。なぜでしょうか。繰り返しますが、貧しいとは空っぽである、空ろであるということです。もう自分で自分の空ろを埋めるべき何ものも持たない。切羽詰まっているのです。人間として生きることにおいて切羽詰まっている。霊の問題において、生きることの根本において切羽詰っている。そういう者こそ幸いである。
なぜなら、そういう者こそ神に頼ろうとするからです。神に頼らねば生きていかれない。そういう状況にあるとき、人はなりふり構わず神にしがみついていくのです。そしてそのような人々こそ、真に幸いな人々なのです。

世界情勢が激しく揺れ動いています。間違いなく、後の歴史に刻まれる出来事、世界の歴史の大きな分岐点となる出来事が起こされています。驚くべき戦争が行われ、戦場の信じがたい光景が伝えられています。あらためてわたしたちは覚えずにおれません。世界の基盤はまことに不確かです。この世の国はまことにあっけない、明日をも知れない地盤の上に立てられているのです。今日盤石だと思ってより頼んでいた土台が、明日にはあっけなく崩れ去る。
そして、世と世のものは過ぎ去っていきます。そのことを知るなら、わたしたちは天の国の教えを聞かずに済ませることはできないのです。永遠に存続するものについて学ばずにはおれないのです。そこに命と人生の土台を置くべきことを考えずにはおれないのです。

心の貧しい人々、すなわち心が空っぽの人々は、その空ろを何によって満たしていただくのでしょうか。神が持っておられるものによってです。天の国の、満ちあふれる宝によってです。
この世界には、この世的な手だてによってはどうすることもできない問題があります。富や財宝、地位や名誉、人間の知恵や力など何の役にも立たない問題があります。生きることと死ぬことにおける根本的な問題です。世界と人間の救いにかかわる問題です。それはおそらく、世界と人間における根本的な貧しさ、無力さ、空虚さということにかかわっています。
その意味で、そうした根本的な貧しさを知る者たちは幸いです。なぜなら、その埋めようもない空ろを神に埋めていただくすべを知っているからです。神はわたしたちの空ろ、わたしたちの貧しさを豊かに、あふれるほどに満たしてくださいます。キリストの命の力をもって豊かに満たしてくださるのです。