見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

命の水

この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。
ヨハネによる福音書4章13~14節)

アメリカの軍隊が直面している深刻な問題について取り上げている番組を視たことがあります。戦場から帰ってきた兵士たちが、戦場で人の命を奪った記憶にさいなまれてPTSD(心的外傷後ストレス障害)を病むという問題です。
聖書によれば、人は神の被造物です。そして「殺してはならない」との神の言葉が刻まれています。一方軍隊は人の命を奪う人間を養成する場所です。兵士たちが自己矛盾と自己分裂に陥るのは当然のことなのです。
心を病んだ兵士たちは、戦場での記憶から逃れるためにアルコールを浴びるように飲みます。しかし一時的な気の紛れにはなるにせよ、アルコールに彼らの心を根本的に癒すことはできません。

喉の渇きを覚えると、水を飲みます。しかし喉の渇きばかりでなく、魂の渇きというものがあります。人間が生きていくためには、魂の渇きを根元から癒す命の水が必要です。現代社会にあって、多くの人々が魂の渇きにさいなまれています。魂を潤し、生きる力を与える命の水、決して涸れてしまうことのない命の力を、わたしたちはどこに見出すことができるのでしょうか。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。キリストは、人の命を生かす命の水の源です。この方は汲めども尽きぬ命をわたしたちに注ぎ続けてくださる井戸です。キリスト者とは、この尽きぬ命の水脈、あるいは水源のありかを知っている存在です。そして、この命の水の源を知っているかどうかが、人間にとって決定的に大切なことです。
命の神につながっていないなら、人はやがてまた渇きます。何をしても、どこから求めても、やがては渇くのです。しかし命の神につながっているなら、永遠に渇くことはありません。それは具体的には、神の言葉の潤いに生きることです。キリストの言葉を聞き続けることです。御言葉はわたしたちの近くにあります。永遠の命の水を受けるための機会は、つねに与えられています。栓をひねるなら、命の水はたちどころに、豊かにあふれ出てくるのです。

キリストを通して命の神につながるとき、わたしたちの心と言葉と行いは渇きを癒され、潤されます。通じなかった言葉が通じるようになる。争いと敵意がとりのけられ、愛と平和とにとって代わる。死の力さえ、この水の命の力には及ばない。永遠の命の水を受けて生きるなら(使徒パウロが言うように)外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされていくのです。