見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

祈りの祝福

わたしは絶えず主に相対しています。
主は右にいまし
わたしは揺らぐことがありません。
わたしの心は喜び、魂は躍ります。
からだは安心して憩います。
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の御手から永遠の喜びをいただきます。
詩編16編8~11節)         

詩編16編は、神の御手の中で生きる詩人の喜びと平安、命の神への詩人の信頼の思いに満ちています。何とみずみずしく、あたたかく、命の躍動にあふれた言葉だろうかと、ここを読むたびに思います。このような祈りの言葉が導き出されていることそのものが、詩人が仰ぎ、より頼んでいる神が生ける神、命の神であることを証明しているのではないでしょうか。

神は彼のそば近くにおられます。神と彼とのこの距離の近さ、親しさはどうでしょうか。いかに親密な人間関係もここでの神と詩人との近さ、親しさには及びません。詩人は神を魂の底から愛し、慕い、神が近くあってくださることを心から喜んでいます。もちろん、それは神が彼を心をかたむけて愛してくださるゆえです。

詩人は旧約聖書の時代に生きた人ですから、当然イエス・キリストを知りません。旧約の時代の信仰者たちはキリストの十字架と甦りの御業を見ることはゆるされませんでした。またそれゆえに、旧約聖書には復活の信仰はそれほどはっきりした、確かなものではなかったとの見方がなされています。それでも、旧約聖書詩編の詩人が復活のキリストの救いを先取りする、キリストにおいて鮮やかに示された救いをあらかじめ見る、まだ実現していないことを霊のまなざしをもって仰ぎ見るということはあり得たのではないでしょうか―彼が「絶えず主に相対していた」ゆえに。神が彼に近くあられ、御自身の命の恵みを豊かに注いでくださったゆえに。

彼はかつて神ならぬ神々にとらわれていた人であったと思われます。しかし今は命の神に見出され、まことの命の恵みに生かされています。日々命の神との交わり―祈りに生きるいとなみを与えられています。人は神ならぬ神々にも祈ります。しかし物言わぬ偶像に語りかけたとしても、それは祈りにはなりません。祈りの体(てい)をなしません。生けるまことの神に立ち帰ることにより、本当の祈りもかえってくるのです。

祈りの中で、彼は知らされていったのです。救いの真理を深く知る幸いを。神の啓示の光のもとで、人間が死にゆく者であることを。救いとは死の問題の克服であること、死を超える命を得ることであることを。そして、神のもとにこそ救いが、死を超える命があることを。そのように、神との交わりの深い体験から、日々の祈りの交わりの積み重ねの中から、彼が救いの真理へと導かれ、永遠の命を待ち望む人とされていったのは何も不思議のないことです。                                     

そうした意味で、詩編16編はキリストの復活を信じる信仰と無関係ではありません。キリストの十字架と復活。ここに救いがあり、死と命の問題の解決があります。生ける神のもとで、詩人はキリストの救いの前味を味わうことをゆるされたのです。この詩編の全体は、そのことから来る大きな喜びにつらぬかれています。

祈りにおいて、神は天の窓を開いてくださいます。神との交わり、神との対話の中で、信じる者のうちに新しいことが起こります。新しい命、新しい力、新しい希望を神は与えてくださいます。命の恵みを祈り求めるたびに、わたしたちは新しい恵み、新しい喜びを見出します。わたしたちの魂は新しい命の喜びにあふれます。それが祈りの祝福です。