見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

神を待ち望め

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。
詩編42編12節)

「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」(1節)
詩人は今大きな苦難の中に置かれています。彼は自分のすがたを、水を求めて谷におりて来た鹿になぞらえます。息も絶え絶えに川のほとりにたどりついたのに、川は干上がり、地肌が見えているのです。渇きのきわみにあって、彼は命の神を求めます。しかし、彼には神の御顔が見えません。                        

「わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/『お前の神はどこにいる』と」(11節)
彼は忠実な信仰に生き抜いてきた人です。しかし、神は御顔を隠してしまわれたかのようです。彼を助けてくださらないのです。

彼は敵(10節)に囲まれています。この敵とは死のことであると研究者は言います。命をおびやかす存在です。瀕死の試練に遭っていても、神は沈黙しておられます。敵は言います。お前の神はどこにいると。
彼は死の淵から神に問いかけます。そして神と自分との隔たり、天にいます神と地の底に横たわる自分との距離の遠さを痛感せずにおれません。神はわたしを忘れてしまわれたのか。もはやわたしを顧みてくださらないのか。
神が沈黙しておられること。神が御顔を隠しておられること。信仰者にとってこれほどつらい、耐えがたいことはありません。命の神に渇き、敵に嘲られ、彼は絶え間なく涙を流します。
そのような境遇に置かれたなら、絶望の底に沈んでも不思議はありません。詩人の側でも神から目を背け、ひたすら嘆きの中に身を浸して日々を過ごすということになっても不思議はありません。

しかしそうした状況にあって、彼は自分の魂に呼びかけるのです。なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。「御顔こそわたしの救い」と。
人間の魂の最も崇高なありかたをここに見ます。この試練の中で、詩人にとって神はなお「わたしの神」です。彼の魂は起き上がり、彼のまなざしは天の神を仰ぎます。彼は神に祈ります。祈りの中で闇から光、絶望から希望へと転じる道が開かれるのです。
詩人はまさに、神が生ける方であることの証人です。どれほど大きな苦しみ、どれほど深い絶望の中からも、人は神を呼ぶことができます。それは、神が命の神であられるからです。命の神が彼のうちに生きておられるからです。神は最も深いところで彼の叫びを聞き、彼の存在を支え、彼のために執り成していてくださるのです。