見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

義のために迫害される人々は、幸いである(2)

義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
(マタイによる福音書5章10節)

迫害を受けることがなぜ喜びなのでしょうか。第二に、天における報いが大きいからです。キリスト者はこの世のことだけをはかりとして生きるのではありません。天の国のはかりを持っています。そして、この世の事柄をも天の国のはかりではかります。
この世のはかりから見れば迫害をこうむること、苦しみや悲しみや辱めを受けることはただわざわいでしかないかもしれません。しかし迫害や辱めを受けつつも、この世から憎まれ、あざけられ、打たれつつも、これを耐え忍んで神の義に生き抜く者たちには天の宝、天にある報いが与えられるのです。天にあっては地上でのすべての労苦が報われるのです。

キリスト者たちには、天を仰ぐまなざしが与えられています。わたしたちの本国は天にあります(フィリピの信徒への手紙3章20節)。天にある大いなる報いを見ることができるゆえに、わたしたちはいかなるときにも喜んでキリストの義に生きるのです。迫害を耐え忍んで、キリストの道を歩むのです。希望をもって、たゆみなくキリストのわざに励むのです。
ヨハネの黙示録の3章で、主イエスフィラデルフィアの教会に対して仰せになった御言葉を聞きたいのです。「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう」(10~12節)

迫害に耐えることができる人々は人並みはずれて強い人々、すぐれた人々、雄々しき人々である。そのように考えられることがあるかもしれません。しかしそうではありません。キリスト者とは弱い者たち、無力な者たちです。神に頼らなければ生きていけない者たちです。
そうした者たちを、主イエスご自身が強くしてくださるのです。神の力とは人の強さにおいてではなく、弱さにおいてこそ十分にあらわされる、そういう不思議な力です。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(コリントの信徒への手紙二4章7節)「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(同12章9~10節)

この不思議な命、復活の命の力によって、主はご自分を信じて歩む者たちを強くしてくださいます。だから、わたしたちは弱いままでよいのです。土の器であるままに、主イエスにこの身を委ねたならよいのです。