見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

使徒

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから。
(ローマの信徒への手紙1章1節)

ローマの信徒への手紙の冒頭で、パウロは自分のことを「僕」と呼び、続けて「使徒」とも呼んでいます。使徒。キリスト・イエスの使いとして派遣された者です。キリストの全権大使です。キリストの口となって語り、キリストの手足としてふるまう者です。

人が使徒とされるのは、みずから求めてのことではありません。この世から要求されてのことでもありません。「神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」。人は神に選び出され、召し出されて使徒とされるのです。神によることです。人の思いをはるかに超える、全能の神の不思議な御業により、パウロはキリストの働き人として立てられたのです。

それは本当のことです。かつてのパウロからすれば、彼がキリストの使者、福音の宣教者とされることなど想像すらできないことでした。彼はかつてはキリストを真理の敵として憎み、キリストの教会を迫害する者であったのです。キリスト者たちを捕らえては獄に送り込んでいた者であったのです。
その彼が、ダマスコ途上で復活のキリストと出会い、回心へと導かれた。それはまさに彼自身の力や経験を超えた、神の御手の介入による出来事でした。神に敵対していた人間が、きびすを返して神の道を歩き始める。このような人間の根本的な転換は、実に神によって引き起こされるのです。

キリスト・イエスに出会う以前から、彼は「選ばれた者」でした。ユダヤ教ファリサイ派のエリートでした。世の人々は彼を称賛し、彼自身も自分をこの上なく正しい、立派な、信仰深い人間として任じていたのです。その彼が、キリスト者とされた今はファリサイ人であったかつての自分の姿を思い返しながら、わたしはなんとみじめな人間だろうかと嘆くのです(7:24)。しかも同時に、キリストの救いにあずかったことを感謝しつつ。

本物の信仰は、人間の主導権のもとでは成り立ちません。人間が神の言葉を自分のはかりにかけて判断し、取捨選択するといった姿勢においては成り立ちません。本物の信仰は、神の主導権のもとでこそ成り立ちます。おのが罪と盲目のうちに浸りきっていながらそれに気づかず、自分ほど正しい人間はないと信じ込んでいたパウロのために、またわたしたちのひとりひとりのために、神は独り子を十字架につけ、その罪を贖い、その霊の目を開いてくださいました。古き罪の人が神の恵みの御手にかかり、打ち砕かれ、キリストにある新しき、幸いなる人に造り変えられる。それは恵みに満ちた、かつ衝撃的な出来事と言うほかはないのです。

旧約聖書創世記に登場する族長ヤコブは、ヤボクの渡しで神の人と格闘し、古き自分を打ち砕かれ、神の恵みに生きる者として生まれ変わりました。その新生のしるしは、足の関節をはずされたことでした。「びっこを引く神との格闘者の上に日がのぼるのです」(ヴァルター・リュティ)。キリスト・イエス使徒は、すべてのキリスト・イエスの僕は、このようにして生まれるのです。