見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

見よ、この男だ

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ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
ヨハネによる福音書19章5節)

ヨハネによる福音書19章は、主イエスが十字架にかけられる前に、ローマの総督ポンテオ・ピラトによる裁判を受けられた場面を記しています。使徒信条が「(主は)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言っている、その場面です。

5節でピラトはたいへん印象深い言葉を語っています。「見よ、この男だ」。この男を見よ。おそらくピラトはこの言葉を、主イエスを訴えたユダヤ人たちに向けて語ったのです。そして、この言葉にこのような意味を込めたのです―このみすぼらしい、愚かな、恥多き男を見よ。いばらの冠をかぶり、紫の服を着たこの傷だらけの男を見よ。こんな男が、あなたたちの言うようにユダヤ人たちを集め、クーデターを起こしてローマを転覆させようとしている人物に見えるか。この男は死刑にする値打ちもないような男ではないか。もういいかげん赦してやったらどうか。

そして、ピラトはこう言ったかもしれません。この無力な男を見よ。この男は何をしても、抵抗することさえできない。なすがままにされるほかない。それほど力のない人間なのだ。抵抗しなかったからしかたがないではないか。見よ、こんな姿になってしまったではないか。わたしには責任がない。無抵抗であったこの男が悪いのだ。

しかし、実はピラトの言葉にはまったく別の意味も込められていたのです。今お話しした意味は、ピラトが自分から語ったことです。けれども「見よ、この男だ」という彼の言葉は、彼が神によって語らしめられた言葉、彼自身意図しないままに神の口となって、神の御心を語らしめられた言葉でもあるのです。

このひとりの方―イエス・キリストを仰ぐとき、わたしたちは知るのです。このひとりの方において神と人間、この世界との間にまことの和解が成立した。それは人間がみずから神との間に和解をなしとげたということではない。神がご自分のほうから罪人に近づき、罪人を愛し、憐れみ、罪人のために死に、罪を贖ってくださることにより、罪人との間に和解をなしとげてくださったのだ。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。独り子を賜うほどに、独り子を十字架に死なせるほどに深く、大きな神の愛は、人の罪の奥底にまで届くのです。この世の最も厳しい現実にまで届くのです。そして、この世の苦しみをその身に担うのです。

今主イエスは激しい痛みと苦しみ、辱しめのきわみの中に身を置いておられます。この世の現実は、このようにして主イエスの魂と肉体に容赦なく襲いかかるのです。しかし目をこらして見つめたいのです。このだれもがつまずく、かかわりたくないと思う、忌まわしい主イエス、恥と悲惨に満ちた主イエスこそがこの世界の王、救い主です。この世界の中心にいるのはピラトでもバラバでもない。ほかのどんな王でもない。この方です。この愚かで、無力な方こそ世界の支配者、万物のかしらなのです。

そのとき、わたしたちは知るでしょう。この世にあって賢く、強くなろうとする道は、実は愚かな、無知な道であるということを。この方にならって、わたしたちが愚かな者、無力な者、人々にあざけられ、軽蔑される者となったなら、それは喜ばしいことです。なぜなら愚か者として生きることのできる自由こそ、人間の本物の自由であるからです。十字架の言葉の真理は、神の命の力は、この世にあっては愚かなしかたであらわれされた。そのことを知っている者、それゆえに十字架の福音を恥としない者こそが、真の知恵者なのです。

世界を救ったのは人間の理想でも、計画でも、責任感でも徳でもありませんでした。イエス・キリストの十字架において世にあらわされた神の愛こそが、この世の救いとなったのです。いかなるこの世の悪にもうちかつ、いかなる人間の罪をも赦す、そのような神の大いなる愛が、このひとりの方によって世に来たのです。
それが「見よ、この男だ」とピラトが指さした方をとおして、神がわたしたちのためになしとげてくださったことです。主イエスはわたしたちのために死なれた。神の愛によることです。この神の愛によってわたしたちは救われたのです。永遠の救い、永遠の命へと招き入れられたのです。
(受難週祈祷会)