見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

わたしたちの王

弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
(マタイによる福音書21章6~7節)

 

受難週の最初の日、イエス・キリストは都エルサレムに、王として凱旋なさいました。人々は歓呼の声をあげ、木の枝を振りながらこの王を喜び迎えました(この木は「しゅろ」と呼ばれているので、キリストがエルサレムに凱旋された日を教会の暦では「しゅろの主の日」と呼びます)。

この世の王は軍馬にまたがり、鎧をまとい、剣をかざして凱旋します。この世はそのような王を好み、歓迎します。つまり、この世の王はこの世のありかたそのものを象徴しているのです。この世が魅力を覚えるのは強さであり、賢さであり、豊かさです。だれもが強くありたい、豊かでありたい、賢くありたいと願います。また、そのような者になろうと努力します。
反対に、この世が嫌い、軽蔑するのは弱さであり、愚かさであり、貧しさではないでしょうか。

えりぬきの軍馬が強さと賢さの証明であるとすれば、ろば、それも子どものろばは弱さと愚かさの象徴です。そして王キリストは、ろばの子に乗って来られたのです。この世の目にはまことに貧しく、愚かしく、か弱く、みすぼらしく映る王として来られたのです。
実に、そのような王こそがわたしたちの王です。そのような王こそが、わたしたちの命と人生のかしらであられます。わたしたちは、この王に従って生きる。この王についていく。
そのことを知るために、神はわたしたちの心の目を開いてくださいました。

わたしたちもかつては強いもの、豊かなもの、賢いものに魅かれ、弱い者、貧しい者、愚かな者を軽蔑していた者でした。けれどもろばの子に乗った王のもとで、わたしたちは知ったのです。剣はわたしたちを幸せにはしない。剣は、人間同士が命を奪い合うことにしか用いられない。富もまたわたしたちを幸せにはしない。富のあるところ、わたしたちはそれを奪い合い、肥え太る者たちの一方で奪われ、飢えて死んでいく人々を生みだす世界をつくることしかできない。
強さはわたしたちを幸せにはしない。わたしたちが強い力を持ったなら、果てしなく高ぶり、力の弱い者たちをおさえつけることにしか、その力を用いようとしないだろう。

ろばの子に乗った王のもとでこそ、人は真に幸せな命を生きることができます。この王はどんなに小さな命をも殺さず、豊かに生かす王です。どんなに弱い存在をも愛し、慈しむ王です。この王の統治する王国にこそ、愛と平和が満ちています。命の喜びが満ちています。