見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

豊かな所に

神よ、あなたは我らを試みられた。
銀を火で練るように我らを試された。
あなたは我らを網に追い込み
我らの腰に枷をはめ
人が我らを駆り立てることを許された。
我らは火の中、水の中を通ったが
あなたは我らを導き出して
豊かな所に置かれた。
詩編66編10~12節)

詩人は「わたしたちは何度も火の中、水の中を通った」とうたっています。「火」「水」は苦難を表します。信仰者にも苦難はあります。今の時代にあって生きるわたしたちも、現実に火の中、水の中を通らされるのです。
しかし詩人は注目すべき理解を示しています。苦難や災いに遭うのは、神が人を見離したゆえであるとしばしば考えられます。けれども詩人は、まさしく反対のことを言っています。神よあなたが、わたしたちを網に引き入れられた。わたしたちの腰に重荷をつけられた。神よあなたが、わたしたちが苦難に遭うことをよしとされた。

それは何のためであったのか。苦難を通して、神は信じる者たちを鍛えられるのです。銀が何度も何度も火の中に入れられ、そうすることで精度をたかめていくように、信じる者たちも試練に遭うことで次第に練られ、ととのえられていくのです。
またわたしたちは、みずから苦しみや痛みを受けることによって他者の痛みや苦しみに共感を寄せることができるようになります。苦しみに遭うことがなければ、悲しみや痛みを知らなければ、わたしたちはどれほど冷たい人間であり続けることでしょうか。
キリストが人となられたのは、あえて人間の肉体をとられたのは、その体をもってわたしたちの痛み、人間の苦しみをまさに御自身の痛み、苦しみとして担われるためであったのです。

さらに、苦難があってこそ神の恵みは鮮やかに浮かび上がります。苦難というものがまったくなかったなら、わたしたちは神の恵みを知ることもないでしょう。
なぜなら、神の恵みは苦難のただ中であらわされるのだからです。イスラエルが荒れ野で旅をしていたとき、神は天からマナを降らせてくださいました。マナは空腹のきわみにおいて降ったのです。神は岩から水をほとばしらせてくださいました。岩から湧き出た水は、たえがたい喉のかわきの中で与えられたのです。紅海の水がふたつに開いたのも、ヨルダン川の水がせきとめられたのも、命の危機のただ中においてであったのです。まさに苦難は、神が御手を伸ばして人を、わたしたちを救ってくださる方なのだということをはっきりと知る手だてとなるのです。 

詩人は、神が人に苦難を与えることの目的が「豊かなところに置かれる」ことにあるのだということを理解しています。「豊かなところ」とは、旧約聖書の民にとっては荒れ野の試練の後に与えられる約束の地カナンのことだとも言い得るでしょう。捕囚の苦しみからの解放の御業とも言い得るでしょう。
わたしたちにとっては、それは終わりの日の救いの完成の希望です。使徒信条の言葉で言うなら、からだの甦りととこしえの命の希望です。この希望は失望に終わることはありません。わたしたちはこの地上で苦難に遭い、試みに遭います。しかしわたしたちは勇敢にたたかい、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通す。そして、かの日に神は義の栄冠をさずけてくださいます。地上におけるすべての苦難も、試練も、そのプロセスにおいて益となり、用いられるのです。