見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

「聞く」ことと「行う」こと

昨日、大学時代からの友人が6年ぶりに訪ねてくれました。彼とは卒業に際して、コピー用紙にワープロ打ちした「二人詩集」を作りました。国語の先生としてよい働きを重ね、小学校、中学校で校長を務めた後、先月定年を迎え、今月から大学の特任教授の働きに就くとのこと。三浦綾子塩狩峠』も含めた授業の実践が評価され、広告会社の財団が設けている教育関連の大きな賞も得ています。教師としての豊かな経験を生かして、さまざまな場所ではば広く活躍してきたひとです。
楽しいひとときでした。「ことば」をめぐって、たがいの思いを分かち合いました。
詩集、ぜひまとめてください。

40年来のお付き合いですが、ずっと変わらないことがあります。彼は「聞く」ことの達人なのです。彼に話を聞いてもらうことが、とても心地よいのです。だれにもできることではないと思います。

「聞く」ことと「行う」こと。そのどちらがむずかしいでしょうか。わたしたちの心のどこかに、聞くことはやさしく、行うことはむずかしいという思いはないでしょうか。聞くだけならたやすいけれども、実行力を身につけるのはむずかしい。そういう考えが一般にあるのではないでしょうか。
しかし、聞くことはそれほどやさしいことではないと思います。他者の言葉を聞くのは、しかもただ聞くふりをするのではなく親身になって、心をこめて聞くのは、むずかしいことです。もし相手の言葉をそのようにして、終始変わりない姿勢で聞き抜く、聞きおおせることのできる人がいたなら、その人はかなりの大人物であると、だれかがどこかで語っていたのを思い出します。
他者の言葉を重んじることは、他者のいのちを重んじること。

聞くことは、決して小さなことではありません。聞くためには、相手と正面から向き合わなければならないからです。相手を信頼し、相手に向かって心を開かなければならないからです。
ただ行う、自分の思うように、自分のほしいままに行うというのであれば、相手の存在を意識しなくてもできます。相手に対して心を閉ざしたままでもできます。相手の言葉を聞いたばかりに、それまでの自分が揺さぶられたり、ぐらつかされたりすることも起こり得るのですが、そういう心配もしなくてすみます。
そう考えてくると、実は聞くことも意外にむずかしいのだ、むしろ行うことよりもむずかしい場合もあるのだということがわかってくるように思うのです。