見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

「それでも」の愛

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「わたしの目にあなたは価高く、貴く…」                                                            ( イザヤ章43章4節)

ある男性はひとりの女性を好きになり、彼女にたくさんプレゼントをしました。高価な品もいとわず、買い求めて贈りました。でも、彼女の心をとらえることはできませんでした。                                                                             ある女性は交際をはじめた男の人に気に入ってもらおうとして、彼の言うことにすべて従いました。ときに理不尽だと感じる求めにも、嫌われることがこわくて従順にこたえました。そのうちに、彼の無理強いはだんだんと度をこしたものになっていきました。
ある学生はお父さんの期待にこたえようと猛勉強をして、難関大学に合格しました。けれどもその後深いむなしさを覚えるようになりました。目標を果たし、お父さんにも喜んでもらえたのですが、はたして自分は何のために、だれのために生きているのだろうかと考え込んでしまったのです。

上に紹介した人たちは、みな彼女に、彼に、父親に愛されようとし、そのために努力したのです。でも、このような例を見るとき、愛するとはどういうことなのかと問わずにはおれないのです。愛するとは、品物で相手のこころをつなぎとめることでしょうか。嫌われたくないばかりに、相手のいいなりになることでしょうか。

愛にはふたつのかたちがあると言われます。ひとつは「だからの愛」です。つまり、その人が愛するに価値ある人だから愛するという愛です。相手が健康で、若く、お金があり、地位があり、能力があるから愛する。実は世の中にはそれこそ愛だという考えが広くいきわたっているのではないでしょうか。でも、ちょっと待ってください。そうだとしたら、相手が年をとり、病気になり、お金や能力を失ってしまったなら、愛は消えてしまうものなのでしょうか。愛とはそんなにもろく、はかないものなのでしょうか。

もうひとつの愛があることを知っていただきたいのです。それは神さまの愛です。神さまは無条件でわたしたちを愛してくださいます。わたしたちに何ができるか、どういう資格があるのかをいっさいお問いにならず、わたしであるままに愛してくださいます。神さまの目には、わたしたちの命と存在そのものが価高く、貴いからです。

神さまの愛は「それでも」の愛です。わたしたちがどのような人間でも、わたしたちを愛してくださいます。わたしたちの存在そのものをいとおしんでくださいます。

(岐阜加納教会ホームページ「メッセージ」より)