見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

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ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。
(マルコによる福音書16章4節)

石は、主イエスの墓穴をふさいでいました。石の向こう側には、主イエスのなきがらが葬られてありました。墓穴をふさぐ石の壁。それは死の壁、生きている者と死者とを隔てる壁です。

いかなる人間も、この壁を動かすことはできません。大きな石が覆いかぶさるようにして、死はわたしたちの人生にのしかかるのです。死は草花が枯れるように自然な現象である、死は眠りのようなものにすぎない、そのように言う人もありますが、もしそうならなぜ人の死に大きな悲しみ、嘆き、痛みがともなうのでしょうか。尋常でない恐れがともなうのでしょうか。墓をふさぐ石の前で、なぜ人間はこれほどの無力を味わうのでしょうか。
死は自然なものではありません。パウロは死を「敵」と呼び、また「とげ」と呼んでいます。死のとげの前に、人間は敗北を重ねてきたのです。死は人間とこの世界から喜びを奪い、希望を奪い、まことの命を奪う敵です。この敵と、たたかいを交えなければならないのです。この敵に勝利をしなければならないのです。

ある人は言っています。人間の文化はどれも死の支配をゆるした上での文化、死に枠づけられ、死に限界づけられた中での文化にすぎない。
つまり、人間の文化は死の壁を動かすには至っていないということです。大きな墓石が自分たちの人生をふさいでいることを、当然のこととしているということです。
しかし、それでよいのかと問わねばならないでしょう。死に対する勝利ということが考えられねばならないのです。死に限界づけられた命は、やはり真の命ではないのです。

死はどこから来たのでしょうか。パウロは死の由来についてこのように語ります。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。罪とは、人が造り主なる神のもとを離れてしまった、そのありかたそのものを言います。死の恐れ、死の悲しみ、死の痛み、死の虚無はここから、すなわち被造物である人間が造り主なる神から離れたところから来るのです。神の愛、神の恵み、神の守りの御手から離れ去り、孤独に、高慢に生きようとするなら、人は苦しみ、痛むほかはないのです。恐れ、悲しむほかないのです。
罪の報酬が死であるとは、決して人生の最後に来る死のことだけを言うのではありません。始祖アダムにあって、人は生まれながらに罪の支配のもとにある。人生の全体が、罪の報酬である死の力に押しつぶされている。
それゆえわたしたちの命と人生は、すでに生まれながらに罪と、その報いとしての死のもとにあるのです。

主イエスを愛していた女性たちが主イエスの墓におもむいたときにも、彼女らはすでに死の支配のもとにあったのです。死に対する深いあきらめの中にあったのです。大きな墓石が立ちはだかっていた。彼女らの力では、それを到底動かすことはできなかった。死の前に、すべての人間は無力である。
しかし、彼女らがそこで目にしたのは驚くべき光景でした。墓石が転がされていたのです。微動だにしないものと信じて疑わなかった石が、転がされていたのです。
それは何を意味していたのでしょうか。神が、死に対する勝利をもたらしてくださったということです。御子イエス・キリストをとおして、死に勝利してくださったということです。

墓石はどのようにして転がされたのでしょうか。人の命を阻む罪と死の壁はどのようにして動かされたのでしょうか。
そのことを理解しようと思うなら、わたしたちは受難週に、主の十字架の御業にもう一度立ち戻っていかねばなりません。神は生まれながらに罪の縄目にとらわれているわたしたち罪人を愛し、その愛ゆえに人の罪をその身に担われ、御自分の命を捨てられたのです。罪なき方が、十字架の上で罪の報いを支払って死なれた。
それゆえ、その死は罪の贖いとなったのです。それゆえ、わたしたちは罪から解放されたのです。
こうして、石は転がされたのです。神の愛が、人間の動かし得ない石を動かしたのです。これがイースターの朝に起こされた御業です。

わたしたちひとりひとりの命と人生にあって、すでに石は転がされています。主イエスが墓を後ろにし、永遠の命に甦られたように、主イエスを信じるわたしたちもすでに墓に縛られていないのです。主イエスに結ばれ、神の命の自由と喜びの中に生かされているのです。そのことを知るとき、わたしたちになし得ることは愛の神のはかり知れない恩寵に感謝することのみです。神をたたえることのみです。

イースター墓前礼拝)