見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

死の陰の谷を行くときも

主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
詩編23編3~4節)

4節で詩人はうたいます。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない」。
これは驚くべき言葉です。人生における最大の恐れ、悲しみ、使徒パウロが「最後の敵」(コリントの信徒への手紙一15章26節)と呼ぶ死さえも、わたしは恐れることがない。そう語ることができるなら、そのような人生こそ真にすばらしい、祝福された、喜ばしい人生であると言えないでしょうか。

四節は「死の陰の谷を行くときも」と、仮にそのようなことがあったとしても、とも取れる表現になっていますが、死はだれもが通る道です。わたしたちのだれもがやがて定められたときに、この死の陰の谷に直面するのです。人生の終わりに死の谷が待ち受けている。わたしたちすべての者にとって、これほど確実なことはないのです。

しかし、そのような場所を通るときにもわたしは恐れないとうたわれます。なぜでしょうか。わたし自身が強いので、わたしが死にうちかつ力を持っているので恐れないということでしょうか。
そうではありません。「あなたがわたしと共にいてくださる」。羊飼いが共にいてくれる。だから恐れないのです。羊飼いが、死の現実を根本的に克服してくれた。死に対する勝利をもたらしてくれた。死の恐れを根こそぎにしてくれた。だから、羊は恐れないのです。

羊飼いはみずからの命をかけて、羊たちをおびやかす死の獣とたたかってくれた。すなわちまことのよき羊飼いなるイエス・キリストは、わたしたち羊のために命を捨ててくださった。聖書は、死は「罪が支払う報酬」(ローマの信徒への手紙6章23節)であると語ります。人はみずからの罪の報いとして死なねばならない。生まれながらの罪の報酬を支払って死なねばならない。だからこそ死はすべての人間にとって恐れであり、悲しみであり、最後の敵です。

しかし、キリストはわたしたちのその罪を身代わりに担って十字架に死なれた。陰府の底にまでくだられた。だから、たとえわたしが死の陰の谷を行かねばならないとしても、主はそこにも共にいてくださる。死の苦しみをきわみまで味わってくださった方が、わたしから離れることはない。主がわたしのために苦しみ、死なれたゆえに、わたしの罪を御自分の命をもって、あの十字架の上で贖ってくださったゆえに、わたしの死はすでに命に変えられている。だから、わたしは死に臨んでも恐れることはない。

わたしたちは確かに、この地上において死の時を迎えます。しかしまことの羊飼いにあって、今や死の意味は根本的に転換しているのです。よき羊飼いのもとにある死は、もはや罪の報酬でも、滅びでもない。新しい命、永遠の命の始まりです。

よき羊飼いと羊との絆は、死によってさえ断ち切られることはありません。わたしたちは地上にあって、すでによき羊飼いと結ばれて生きる。やがて天の御国につくときには、さらに強い絆によってよき羊飼いに結ばれて生きる。死を超える、死にうちかつ永遠の命を生きる。そこに、わたしたちすべての者の希望があります。