見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

神(4)

昔から多くの人々が(よく知られた哲学者たちも含めて)神が存在することを証明しようとしてきました。世界は運動をしており、その世界の動きのおおもと、第一原因、第一動力ともいうべきものが神であるとか、物事に結果と原因とがあり、その因果の法則を操る存在が神であるとか、世界に法則や秩序、終局の目的を与えた存在が神であるとか、だれの心にも生まれつきある善悪の区別、道徳律を刻み込んだ存在が神であるとか、世界のどの民族も宗教を持っており、そうであれば宗教はそもそも人間の本性に根づくものであり、それゆえに現に神が存在するのだとか、そうしたしかたで神存在の証明ということがさまざまに試みられてきました。

ところで問題は、こうしたしかたでの神存在の証明は果たして成功したのかということです。結論から言えば、そのすべてが失敗に終わったのです。なぜなら、どの方法もその手続きがはじめから間違っていたからです。
つまり、これらの方法はいずれも神に造られたもの―被造物を手がかりにして神の存在を証明しようとしています。たとえば人間の観念、人間の理性、知性、人間の良心、道徳心、あるいは世界の運動、世界や自然の法則、これらはみな被造世界にあるもの、世界の内側、人間の内側にあるものです。しかし世界の内側にしか証明の手がかりのない神、あるいは人間の知識の範囲内でしか証明されない神、人間の手でその存在を証明してもらうような神は、神と呼び得るでしょうか。
神は世界を、また人間を超えた方、永遠者です。一方世界も、人間も限りあるものです。哲学者たちによる神存在の証明の失敗は有限なるもの、被造物が永遠なる神、造り主なる神を証明しようとしたこと、その本末転倒にあったのです。

要は、人間が証明し得るような神は真の神ではない、せいぜい偶像の神々が洗練された姿をとったものにすぎないということです。神は人間の手によって証明してもらう必要のない方です。なぜならご自身の言葉、聖書をとおしてご自身の存在をあきらかになさるからです。神は聖書を通してご自身の存在と御業とを語り示されます。聖書のほかには、神存在の証明のなされている場所はないのです。