見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

福音―神の力

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
(ローマの信徒への手紙1章16節)

使徒パウロは、わたしは福音を恥としないと言います。なぜパウロはわざわざこのような言いかたをするのでしょうか。それはそもそも福音が恥である、この世にとっては恥であるということがあるからではないでしょうか。

イエス・キリストベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶の貧困の中に、か弱く無力な乳飲み子として生まれ、罪人らの悪しきはかりごとにあって怒りと暴力と嘲笑の渦の中で死なれました。飼い葉桶から十字架に至る道は、愚かさと恥とにいろどられた道でした。人々は十字架から降りて自分を救うことのできない主イエスの無力をなじりました。十字架は、まさしくこの世にとっては、生まれながらの人間にとっては恥なのです。

わたしたちは誰しも、できれば恥をかきたくありません。自分を偽ってでも、自分の弱さを隠しておきたいのです。つねに強く、誇り高い人間でありたいのです。そのような人間であるために、わたしたちはこの世において価値あると見なされているものを手に入れるために努力を重ねるのです。
しかし、よく考えたいのです。わたしたち自身が高く、強く、誇り高くなっていく道は、果たしてわたしたちを救う道なのでしょうか。むしろ、まさにこの道の途上でわたしたちは真理と命の道を見失い、あるべき正義と平和とを大きく損ねてしまっているのではないでしょうか。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:51~53)。これが神のなさりかただとすれば、人間がみずから高みへとのぼりつめていく道は、むしろ行き詰まりの道なのではないでしょうか。
自分の力で自分を救い得ると考えているうちは、福音はわかりません。なぜなら福音は「神の力」だからです。

福音において示された神の力は、神が歩まれた道をわたしたち自身も歩むことによって、すなわちわたしたち自身も弱く、貧しく、無力になることによってはじめて見出すことのできる力です。神はまことに不思議なことをなさる方です。この世が恥とし、つまずかざるを得ない十字架の言葉のうちに、命と自由の道を用意なさったのです。へりくだることのできなかったわたしたちが、今はへりくだることができる。果てしなくかき集め、奪い続けても決して満ち足りることのなかったわたしたちが、今は天の宝に満ち足りている。人を赦すことのできなかったわたしたちが、今は赦すことの喜びを知っている。自分の弱さを受け入れることができなかったわたしたちが、今は自分を本当に強くしてくださる神をあがめ、神を誇って生きている。これが神の力です。

この力はこの世には隠され続けていました。福音書によれば、主イエスの弟子たちにさえ隠されていました。けれども十字架と復活の光の中で、主イエスは弟子たちの霊の目を開き、この力が見えるようにしてくださいました。主はご自分を信じるすべての者たちの目をも開いてくださいます。そして、ご自身の命の力によって生かしてくださいます。