見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

福音―神の義

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
(ローマの信徒への手紙1章17節)

人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされます。自分の力で義なる者となるのではありません。神の前に、神のためになした何者かを認めてもらうというのではありません。人は神が人のためになしてくださった御業によって、神の恵みによって義としていただくのです。それゆえ信仰によって義とされるということは、ただちに恵みによって義とされるということをも意味しています。

生まれながらの人間のうちには、自力で義人に成り上がりたいという欲求がきわめて根強く根を張っています。その代表的な例を、ユダヤ教ファリサイ派に見ることができます。人が救われるのは律法を一点一画もおろそかにせず、自分の努力で守り通すことによって神の水準にまでのぼりつめていくことによる。そう彼らは信じていました。わたしたちはこの手紙の著者であるパウロ自身が、イエス・キリストに出会うまではファリサイ人―この教えを熱心に奉じていた人であったことを知っています。
ユダヤ教ファリサイ派から回心したパウロの語る、この信仰による義の解説を通して、宗教改革マルティン・ルターも福音の再発見へと導かれるのです。

宗教改革者となる以前のルターは、ローマ教会の修道士でした。当時のローマ教会も、人が救われるためには神の前に功績を積んで、神の要求する義を満足させなければならないと説いていました。修道士ルターも救いを求め、魂の平安を求めて、教会の教えのとおりによきわざに励みました。徹夜、祈り、断食―それは命がけの、壮絶なたたかいでした。
ルターは自分の、人間の内面を鋭く深く洞察することのできる人でした。それゆえ、厳格な修行を重ねるほどに彼の苦悩は深まっていきました。神の恵みを得ようとする努力の背後におのが偽善の根、抜きがたいエゴイズムの根を見ずにはおれなかったからです。神の義は完全なる義である。一方人間の義は不完全である。不完全な、生まれながらの罪人である人間が、神の完全な義に立ち至るろうとする。その奮闘努力は救いに至るどころか、逆に神の義に裁かれて滅びに至る道ではないのか。ルターは神の義を恐れ、さらには、神は恵みの神だと聞いていたが、かえってその義をもって自分を滅ぼそうとする方にちがいないと、神を憎み始めるのです。

しかし、ルターにも回心の日は備えられていました。摂理的であったのは、彼が新約聖書を研究し、講じる人でもあったことでした。ある日彼はローマの信徒への手紙1章17節を研究していました。そしてひとつの発見をしたのです。
「この時はじめてわたしは神のあわれみを理解し始めた。ここで神の義という言葉で、その土台の上で義人(すなわち信仰者)が神からのおくりものによって、すなわち信仰によって生きるところの義が理解された。そしてあの文章の意味は、福音の中に神の義が啓示されたということである。すなわち神がわれわれ無価値なものを信仰によって義とするという受動的な義が啓示されたのである。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるからである」(W・v・レーヴェニヒ『教会史概論』)

神の義とは能動的な義ではなく、受け身の義であった。すなわち人がみずから獲得しなければならないものではなく、人が神から譲り受ける義であった。キリストは十字架に死んで、わたしの身代わりに罪の報酬を支払われることによって、神の前に義と認められた。そしてキリストはご自身がかちとられた義を、無力な罪人にプレゼントしてくださったのだ。上等の上着を着せてくださるようにして、わたしにまとわせてくださったのだ。ご自身の義を、あたかもわたし自身がかちとった義であるかのように見なしてくださったのだ。わたしの救いのために、神がキリストを通してすべてをなしとげてくださった。だからわたしは、この大いなる贈り物を感謝して受け取るならそれでよい。

この発見によってルターの魂にはじめて喜びと平安とがやってきました。神が恵みの神であることの本当の意味を、彼は理解したのです。発端は小さな文法上の発見、「冷静な言語学的結論」(レーヴェニヒ)であったのです。真に聖書を重んじるとはこのようなことではないでしょうか。神の言葉、神の真理は、世界と人間とを根本から変革するのです。