見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

心の清い人々は、幸いである

心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
(マタイによる福音書5章8節)

主イエスは言われます。「心の清い人々は、幸いである」。心の清い人とは心の汚れを修行や鍛錬によって追い払うことのできる人、世の汚れに身を染めることがない強い心をもつ人、あるいは心の中が純粋無垢な、幼子のような人のことであるとの理解があるように思います。ここでは、そういう意味ではありません。
ここでの「心の清い人々」とは、人は自分の力で自分の心を清くすることはできないけれども、神にはそのことがおできになることを知るゆえに、神のもとにおもむいていく人々です。そのような人々は、神の恵みを受けて、罪に染まった心を清くされるのです。罪によってさえぎられていた目を開かれ、「神を見る」のです。

主イエスは言われます。「その人たちは神を見る」。神を見ると言われると、何か神秘体験のようなことを思い浮かべる人々もあります。時々、わたしは神を見た、夢の中に神が現れた、神秘的な恍惚状態の中で神にお会いしたという人があります。ここでは、そういう意味ではありません。
神を見るとは、霊において見る、霊的なまなざしをもって見るということです。つまり神を見るとは、神との祝福された出会いと交わりを言う表現なのです。
そして、わたしたちが神を見ることができるとすれば、その道はただひとつです。わたしたちが神を見るのは、イエス・キリストをとおしてです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネによる福音書1章18節)14章9節「わたしを見た者は、父を見たのだ」(同14章9節)
主イエスと出会う。主イエスがわたしたちと出会ってくださる。その時わたしたちはすでに神を見、神と出会っているのです。

以前NHK教育テレビの「日曜美術館」という番組に(その日はジョルジュ・ルオーというフランスの画家を取り上げていたのですが)作家の鹿嶋田真希さんがゲストとして出演しておられました。この方は高校生のときにハリストス正教会で洗礼を受けられ、ハリストス正教の神学生の方と結婚されたのですが、御主人が脳の病にかかり、重い障害を負われることになりました。その苦難を見つめながら小説を書いてこられたのです。
その番組の中で、ルオーが死の直前に、最後に描いたキリストの肖像画が映し出された時、鹿嶋田さんはこう語っておられました。これはまさに今はりつけにされようとしておられるキリストの御顔です。けれどもわたしは、この御顔にすでに復活の光が射しこんでいるのを見ます。この光があるので、人は(わたし自身も)生きていかれるのだと思います。

心の清い人、すなわちキリストを求め、キリストを仰ぐ人は、神を見るのです。キリストを見るのです。そしてわたしたちが神を見るというのは、真空状態の中で見るということではありません。人生の苦難のただ中で見るのです。苦しみや試みのただ中で、神はわたしたちにその御姿を現してくださるのです。それゆえにマルティン・ルターは言いました―苦難の中でこそ、試練の中でこそ、わたしたちはすべての世の知恵をこえる知恵である神の言葉がどれほど正しく、どれほどまことで、どれほど好ましく、どれほど強く、どれほど慰め深きものであるかを知り、また体験するのである。

神を見る。キリストをとおして神を見る。それはどのような苦難の中にも光と希望を見る、そういう人生を生きるということです。今すでにわたしたちは神を見る幸いに生かされています。キリストが共におられるからです。