見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

平和を実現する人々は、幸いである(1)

平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイによる福音書5章9節)

「平和」を、人々はどのようなものとして理解しているでしょうか。たとえば争いや対立がないこと、波風が立たないおだやかな状態を平和と見る見方があるかもしれません。「和をもって尊しとなす」という言葉もあります。
ただ、表面上波風が立っていない状態に見えても、実はその中身はいろいろです。「長いものには巻かれよ」という言葉もあります。自分の意見を言うと、必ず反対意見の人との間に摩擦が起こる。それはしんどいので、とりあえず長いものに巻かれておく。それが表向き平和な状態をつくっているということもあり得ます。あるいは、発言力の強い人に押さえ込まれて言いたいことが言えないということもあります。

国と国との関係を考えても、戦争のない状態がとりあえず平和な状態であると考えられることがあると思います。ただ、戦争がなければ平和な状態であると本当に言い得るでしょうか。第二次世界大戦後、世界は長く東西の冷戦と呼ばれる状況の中で、強い国同士が核の脅威によって戦争をおしとどめるという状態をつくってきました(残念ながら、それが今の世界の現実です)。
けれども問題は、軍事力によって表向き戦争のない状態を保っている世界が本当の意味で平和な世界であるのかということです。ある神学者は言います。政治家たちも世の人々も、平和ということと安全ということとをとりちがえているのではないか。平和と安全とは異なる。なぜなら、安全を求めるという場合には相手に対する不信感があるのであって、この不信感が再び戦争を引き起こすということになるからである。安全を求めるということは、自分を守りたいということである。しかし自分を守ることによっては平和は来ない。軍備を固めても、条約の締結を重ねても、平和は来ない。

そこで、聖書の語る「平和」の意味です。主イエスはここで旧約聖書における平和という言葉、ヘブライ語の「シャーローム」という言葉をそのまま受け継いでおられます。「シャーローム」はたんなる表側だけの平穏、波風のない状態を意味するのではありません。人々がただおだやかに生きているということ以上に、人々の間に愛と真実、正義と思いやりの関係が成り立っているということを意味する言葉です。
つまり、平和とは何もしないことだということではありません。平和にはもっと積極的な意味があります。そこに生きる者たちが隔ての壁を克服し、争いを解決し、愛をはぐくみ、思いやりを育て、おたがいに責任をもって、命のかよった交わりを築き上げる。それが聖書における平和という言葉の意味するところなのです。

そのことが理解されるなら、平和を実現することは実はやさしいことではない、と言うよりも並大抵のことではないことがわかってくるのです。平和を実現するためには、労苦とたたかいがともなうのです。この世の罪とのたたかいです。
わたしたちは自分自身もまた平和を乱す者であることを知っています。ときに自分自身が争いの火種をつくってしまう、対立のきっかけとなってしまう、そういう者であることを知っています。その点では平和を実現するためには、自分自身も変えられなければならないのです。古い罪の自分とたたかい、自己中心の思いを捨てなければならないのです。