見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

憐れみの神

あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
御目に悪事と見られることをしました。
あなたの言われることは正しく
あなたの裁きに誤りはありません。
わたしは咎のうちに産み落とされ
母がわたしを身ごもったときも
わたしは罪のうちにあったのです。
あなたは秘儀ではなくまことを望み
秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
詩編51編2~4節)            

人が自分の罪を知ることができるのは、神の御前においてです。詩人は神と対峙しています。心の中で自問自答している、あるいは人間同士で言葉を交わし合っている、そういう段階にとどまっているかぎりは罪はわかりません。罪を知るためには神の前に立たなければなりません。なぜなら罪は人間を超えたはかり、すなわち神の言葉においてはかられ、明らかにされるのだからです。
詩人は告白します。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました」(6節)。ここに大変深い罪の理解があります。ほかのだれでもない。その言われることは正しく、その裁きに誤りのない(6節)方、完全な義である方に対してわたしは罪を犯した。その方の律法のはかりにわたしは背いた。

神に導かれ、詩人は真理を知らされています。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」(7節)。わたしは咎のうちに産み落とされた。母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあった。つまり、わたしは生まれながらに罪の支配のもとにある。
人間の救いとは、この生まれながらの罪からの救いであることを詩人はわきまえています。そして、人を罪から救うことのできる方は生けるまことの神のみであることをもわきまえています。偶像の神々に由来する「秘儀」や「秘術」(8節)、魔術やまじないは人を救うことはできません。神はそうしたものを詩人の前から遠ざけ、代わりにご自身の知恵をもって彼を装わせてくださるのです。

それゆえ、詩人は祈り願います。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。/深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。/わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」(3~4節)。この詩人の呼びかけはまったく正しいのです。彼はまことに呼びかけるべき方に呼びかけているからです。人の罪をぬぐい去ることのできる方。人の罪を赦す権威を持っておられる方。人を生まれながらの罪の支配から救い出すことのできる方。それは神おひとりです。彼はその方と出会ったのです。

人が神に向けてささげる祈りは、結局のところわたしを憐れんでください―この祈りに尽きるのです。人は神の憐れみによって救われるのだからです。生まれながらに罪の中にある人間は、自分自身の力や知恵によって自分を救うことはできません。人の救いはただ神の憐れみにかかっています。神が憐れんでくださらなければ、人は救いを得ることはできません。
神は罪人を憐れんでくださる方です。その神の憐れみは、キリストの十字架の御業においてあらわされたのです。