見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

聖書の読み方

「D・ボンヘッファーは、聖書をどのように読むべきかについて大切な示唆を与えてくれています。それは、聖書を読むことによって聖書とわたしたちの生活との間に「逆転」が起こるのだということです。
たとえば聖書を人生訓、道徳訓、あるいは教養の書と見なす人があったとするなら(実際にそのような人もあるようですが)、その人にとって聖書はいわば有用な道具といったものにとどまるでしょう。その人の生活は変わらないままで、聖書をところどころ用いるということになるでしょう。そこではあくまでもその人自身が主で、聖書は従です。
この主従の関係が逆転しなければならないのです。つまり聖書が主となり、このわたしは従となる。それが聖書の正しい、ふさわしい読みかただということです。

『聖書に聞こうとする者は皆導かれて、神が人間の救いのために一度かぎり決定的に働き給うたその場所へ赴き、そこに自分自身を見出さざるをえないようにされる。(略)われわれは、かつてわれわれの救いのために起こった出来事にあずかることができ、自分を忘れ、自分を捨てて、共に紅海を渡り、荒野を越え、ヨルダン川を渡って約束の地にはいる。われわれは、イスラエルと共に疑いと不信仰におちいり、罰と悔改めとを通して、再び神の助けと真実とを経験する。これらすべてのことは、夢ではなく、聖なる・神的な現実である。われわれは、自分自身の実存から引き出されて、地上における神の聖なる歴史のただ中に移し入れられる。そこで神はわれわれに対して働きかけ給うた。そしてそこで神は、今日もなお、われわれが困窮と罪との中にある時に、怒りと恵みとを通してわれわれに働きかけ給う』(『共に生きる生活』44頁)

聖書を読む者自身が、聖書の中に移し入れられるということが重要なのです。わたしの救いはわたしの生活、わたしの生涯の歴史の中にあるというのではなく、イエス・キリストの事実―十字架と復活の事実にあります。そして、これは神がわたしたちの外で起こされた御業、すなわち歴史的出来事です。わたしたちは自分自身の中にではなく、この外なる御業に自分の救いを見出すのです。イエス・キリスト受肉、十字架、復活の中に自分自身を見出すのです。そのときにはじめて、神がこのわたしと共におられるということを理解するのです。
それゆえ問題は、神が今のわたしの生活にどのように有用なことをしてくださるのかということではありません。わたし自身が聖書に身を置いて―聖書の人物のひとりとなって、そこで起こっている神の御業に立ち会うということが大切なのです。信仰とは第一にこのわたしの生活や経験から考えていくことではありません。わたしたちの生きるべき道筋は自分自身ではなく、聖書が定めるのです。そこで、このように言われるのです。

『われわれが、自分たちの生活、自分たちの困窮、自分たちの負い目と呼んでいる事柄は、なお真の現実ではなく、聖書の中にこそ、われわれの生命、われわれの困窮、われわれの負い目、われわれの救いがあるのである。聖書を通してわれわれに働きかけ給うことが、神のみ旨であるゆえに、そこでわれわれは助けを与えられる。聖書からのみ、われわれは、われわれ自身の生涯の意味を知ることを学ぶのである。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、イエス・キリストの父なる神であり、またわれわれの神である』(同書46頁)

ここでボンヘッファーが語っていることは、もちろん個人での御言葉の研鑽という局面にだけ当てはまることではありません。主の日の礼拝で聖書が読まれる時にも、まったく同じことが言えると思います。そして、そのことは礼拝の眼目であるイエス・キリストの臨在ということと深くかかわっているはずです。ともかくおよそ聖書を読むという時に決定的に重要なことがここには語られています。このようにして聖書を読む時に、わたしたちは生ける神にお会いできるのだということです」

                (以上、今日持たれたある集会でお話ししたことの一部です。)