見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

祝福を与えるために

以下はドイツの神学者D・ボンヘッファーが『共に生きる生活』(森野善右衛門訳、新教出版社、1975年)という書物の中で語っていることです(138頁以下の要約―本文を少し変えています)。

礼拝を共にし、教会生活を共にしていながら、自分の罪や弱さに人知れず苦しんでいる人は孤独である。「敬虔な者」の交わりの中では、何人も「罪人」であることはゆるされないので、各人は自分の罪を自分自身から、また交わりから隠しておかなければならない。

しかし、神はわれわれに仰せになる。「あなたは救いなき罪人である。あなたを愛したもうわたしのもとへ、ありのままの罪人として来たれ。」神は、罪人に祝福を与えるためにあなたのもとに来たりたもうた。喜び、喜べーこれが福音の恵みなのである。

あなたは神の前に自分を隠すことはできない。神の前では、あなたが人の前でかぶっているマスクは役に立たない。あなたは、あたかも罪がないかのように、自分自身とあなたの兄弟とをあざむく必要はもはやない。あなたは罪人であることをゆるされる。

あらゆる見せかけはキリストの前では終止符を打たれた。罪人の悲惨さと神の憐れみ、これがイエス・キリストにおける福音の真理であった。教会がこの真理に生きるために、主は弟子たちに、罪の告白を聞き、キリストの名によって罪をゆるす権威を与えたもうたのである。「全世界の中で、ただ主にあるその兄弟の前においてのみ、われわれは、ありのままの罪人であることを許される。なぜなら、ここでは、イエス・キリストの真理と憐れみが支配しているからである」。